伊勢崎賢治『武装解除:紛争屋が見た世界』講談社現代新書 2004 読了

武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)

武装解除 -紛争屋が見た世界 (講談社現代新書)



各地の武装解除に現場で関わった筆者が体験を綴ったもの。1-3章は実際の武装解除ミッションについての体験を、第4章はそれのまとめになっている。
紛争の武装解除を直接経験した人だけに、軍事力・秩序への見方は非常に実用主義的・具体的。教条主義に流れないだけに説得力がある。


シエラレオネを状況を題材にしたp.100-101の課題が印象に残る。妹の腕を切り落とした少年兵が自分が教える高校のクラスに入学してきた。妹はトラウマが再発し、怯えて学校に登校できない。復讐の気持をどう整理し、どう行動するか?
私が当事者としたら確実に殺す。少なくとも、「目には目を」と腕を切り落とすだろうと思う。確かに、暴力の連鎖は何も生まないだろうし、その少年兵も誰かに命令されてやったものだろう。しかし、感情はそのような理性的なものでは納得しないのではないかと思う。
しかも、シエラレオネの人々は、復讐をする気力もないほど「絶望」しているという。そこに、なんと言ったらいいだろうか、どうしようもなさを感じる。


アフガニスタンでのミッションの章では、アメリカの「対テロ戦争」の実相が活写される。もともとアメリカが単独ではじめたために体制が不十分だったそうだが、問題はそれだけではない。
タリバン残党を掃討するために現地の私兵を動員する。そのことが軍閥武装解除を阻害する。
また、アメリカ大統領選でブッシュの成果として宣伝するために、数合わせ・外面だけの武装解除を進め、選挙を行う。
そのような、ボロボロの内実があらわになる。


第4章では、アメリカの「対テロ戦争」によって、「人道」や「民主主義」といった、世界的に「善」とされてきた価値観が崩壊したと批判している。
対テロ戦争」以降の自衛隊の海外派遣のやり方を批判し、もとは改憲論者だったが、現在は憲法を買えるべきでないと思うようになったと述べている。
この部分では、共感する部分が多い。


p.230で「武装勢力武装解除を通して中立的に国民の安全を保障する軍もしくは警察をいかに作るかが、建国の方向性を直接的に左右する」とある。
この「中立」な、個人・集団ではなく、国家に忠誠をつくす組織というのが、一番難しいのではないかと思う。そもそも国家・公共というものに忠誠を抱くとはどういうことだろうか。
日本に生まれると国というものが自明に存在するように思い込んでしまう。しかし、それはつくられた虚構であり、国家は自明に存在するという観念、国家への帰属意識によってつくられた、刷り込まれたものである。
そのようなものが存在しない場所では、「中立的な軍事力」「国家に忠誠を尽くす軍事力」というものは生まれ得ないのではないだろうか。
では、そういう場所で、社会・権力はどのような形で組織されているのか。そこに興味がある。


以上、感想をぶつ切りに。