教育についていくつかの記事を読んで。

フィンランドメソッドについて(情報元:RinRin王国さん)
『欲ばり過ぎるニッポンの教育』 (情報元:RinRin王国さん)


フィンランドの教育方法を読んで感じたことは、これは手間がかかるということ。
現在の一クラス30人以上の生徒がいる状況では、このような授業は、導入する気があっても、無理だろう。
私自身も、小学校高学年以降、作文の授業をうけた記憶がほとんどないが、やはり手間がかかるからというのが大きいのだろう。受験にもあまり役に立たないし。


後者の記事でも指摘されているが、基本的に初等教育の問題は、予算不足・リソース不足が大きいと思う。「教育改革」を呼号するならば、予算配分の増加が一番に主張されるべきだろう。
小泉首相が「米百表」なんて言っていたから教育予算が増えるのかと思えば、ここ数年、削る方向にばかり行っている。どこまで資源を投入するかの議論がなく、効率化・競争原理の導入ばかりが主張されるのは、なにおかいわんやだと思う。

もし日本の高校進学率が60%程度にとどまっていたら、現在「教育問題」として語られているものは「きっと今の半分以下」だろう、と。その代わり、学校の外側に学校の外側にたくさん問題があったろう、と。日本は18歳までの若者のほとんどを学校で抱え込む道を選んだのであり、「学校が抱える問題」は「社会が抱えずにすんだ問題」と引き換えで起こっている部分が大きいのだ、ということである。とすると、個々の教員に超人的な才能と努力を要求しない、“持続可能な”教育システムをつくるには、学校が果たすべき役割をもっと限定して残りは社会が負担するか、学校が抱え込む役割の大きさにふさわしいリソースを投入すべきだ、ということになろう。刈谷は現在の教育改革論議を“ハンバーガーチェーンの厨房で働いていた人間に、いきなりフレンチのシェフになれと言っているようなもの”と評している。

引用部で指摘されているように、学校が子供の生活にどこまで責任を持つかも重要。一クラス30人の子供の人生を、学校の先生が抱え込むのは無理だし。


リンク先の記事では取り上げられていないが、大学受験が現在の教育の要であり、「教育改革」を行うなら当然ここにもメスが入れられるべきだと思うのだが。
だいたい、どのような人間を育てるのかというところの検証なしに、制度をいじくっても仕方がないのではないか。
「有名大学の卒業証書を手に入れること」だけが教育の目的になっている現状では、大学の序列を潰すことが一番の「改革」になるだろう。具体的には、東大の廃止とか。
大学教育の目的・学問の性質(アメリカだと「実用的」なもの一辺倒とかヨーロッパのジェントルマンの教養とか)、社会階層・階級のあり方と大学の関係とか、教育はその社会の性質に強く規定されるものなのに、そこの所を考慮せず、競争原理ばかり呼号しても、教育はよくならないと思うよ。
そもそも、「教育改革」とは、突き詰めれば「社会改革」であり、教育を変えるとすれば、それを裏で支える社会の価値観を変えるところから始めなくてはならないのではないか。