私語する学生、居眠りする学生 - もどきの部屋 education, sociology, history

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 最初の方は教員の能力差もあるし、教員の選抜の研究能力で行われているしなと思ったが、後半は興味深い。「高等教育」のフロンティア。教育社会学的な見地から、非エリート大学の意義を指摘する。大学卒の経済的価値が、高卒と比べると相対的に維持されているという指摘。
 しかし、前振りで結構力尽きるな、これは。

すべての「大学」が義務教育補償機関となっているわけではないし、そうなるべきでもない(当たり前だ)。そして義務教育補償の機能を事実上担っている「大学」も、カリキュラムのすべてを「補償」にあてているわけではないし、あてるべきでもない。実際に模索されている/されるべきことは、大学レベルの専門教育の中身を学習する_プロセスにおいて_それ以前の教育段階において確実に身につけておくべきだった知識・リテラシーを(再)獲得しうるカリキュラム・実践の開発である。早期の教育段階に資源を厚く投入すべきことは論をまたないが、このような開発を蓄積しつつある/しうる大学教育に資源投入を図ることにも十分な合理性がある(大学は過剰ではない)。

初等・中等教育時代に身につかなかったものの習得がなぜ大学で可能なのか、ということもある。だが、「できない」と思い込まされてきた自身の思い込みさえ排除できれば、そして、かつては無意味に思われた学習すべき内容の「意義」をそれ以後に蓄積した種々の生活経験とうまく接続し回復できれば、驚くほど伸びる。まさに、「手をかければ、伸びる」。しかも、かなりの短期間で。

 子供でも、生活経験との接続は重要なんだよな。そうやって、学んでいることの意味を自分なりに理解すると、反応が変わってくる(らしい)。

もちろん、現実は厳しい。だが、さしあたり、そうした現実の厳しさと所与の制度・組織の制約のもとでぎりぎりの解を模索しつつ対応するしかない。その模索の過程で、漸次的に踏むべき制度改革の歩みを刻んでいくしかない――それは教育費負担の親がかり状態から大学と学生とをともに解放することを基軸に据えたものとなるだろう。おそらく、その先に新たな大学像が立ち現れる。厳しい現実に置かれている大学――ノンエリート大学――の懸命な模索のなかから、新しい大学像が浮かび上がる。それは、教授言語を英語にするとかしないとか、入学式を春から秋に変えるとかよりももっと本質的な大学像の刷新をもたらすはずだ。

 確かに、「辺境」にこそ革新の芽はあるのかもしれない。