『鶴見良行著作集1:出発』

鶴見良行著作集〈1〉出発

鶴見良行著作集〈1〉出発

 網野善彦の『歴史と出会う』で紹介されていて興味を持った著者。以前、このシリーズの『マラッカ』か何かを読んで面白かったが、他はその時は読み進められなかった。今回、最初から挑戦してみることに。
 鶴見良行は東南アジアを実際に歩いた書物で評価されているが、これはそこに至る前、1960年代あたりまでに発表された文章を集めている。米軍基地に関連するエッセイ、写真評論、ベトナム戦争関連、書評などが集められている。期待していたよりは面白かった。たいして興味がある分野ではないが… 戦後すぐあたりの左翼的な問題意識や社会に関する見方だなと思う点は結構あるけど。
 身の上相談の時代ごとの特色を検討した「夫婦:『身上相談』より」、基地門前の歓楽街に対する人々の感じ方を調査した「基地周辺のひとびと」、写真論あたりが面白かった。
 ただ、一番最初の身の上相談に見られる家庭内の揉め事に対する対処の仕方の変遷については、ちょっと資料に擦り寄りすぎだと思う。明治時代の女性の「自由」さ、昭和の「封建的」様相、戦後の「自由」といった分け方をしているが、単純にそう結論してしまうのはどうだろうか。読者層の変化、編集する側がどのような相談を好んで選ぶかというバイアス、それに応じた投稿者側の変化、そのあたりを含みこんで解析しないといけないのではないか。
 第三部のベトナムからの手紙では、「一致した意見(ナショナル・コンセンサス)を分断せよ」と「軍事国家の論理と心理」が興味深い。前者は、少数の専門家による政策形成と市民層啓蒙活動による「ナショナル・コンセンサス」の形成の問題。それによる軍事へのドライブ。個人的には、それに対する反体制の学生の批判にある「コンセンサス・エンジニアリング(コンセンサスを操作すること)」という単語が興味深い。この「エンジニアリング」というのが、アメリカの学術全般、特に社会科学にとっての問題ではないか。社会を解析し、モデル化し、それを操作しようとする態度。それの根底にある、学問が実用的であるべきという信念。それこそが、アメリカの学問の大きな欠点ではないか。なんのためにその学問を行なうかという、意思あるいは問いを欠いた研究活動は所詮道具に過ぎない。そして、その道具を使用できるのは大概において、財力・権力どのような形にしろ、「力」を持つものに限られる。その結果、人間を道具として扱うような、人の尊厳や人生を顧慮しない、そのような社会をつくってしまっているように感じる。後者は、冷戦期のアメリカの軍事への傾斜を、上からの啓蒙活動と下からの圧力のサイクルとして理解する。これは、ベトナム戦争の中盤あたりに書かれた文章だが、ベトナム戦争の「敗北」をうけてどう変化したのだろうか。そこに興味を感じる。一致したコンセンサスは80年代には維持できなくなっていただろうし。
 以下、メモ:

 女性のこうした結婚欲は、逆に男性を臆病にする。伊藤整の小説『氾濫』の一貫したモチーフの一つは、男性を臆病にさせる女性の結婚欲である。p.79

これは1961年に書かれたものだが、今も昔も変らないといえば変らないな。むしろ気合が入るほど、男は引いていく。

 御真影というすぐれて政治的かつ道徳的なシンボルの意味を明らかにする最初の手掛かりは、その奉拝の様式にある。それは実に厳しく詳細に規定されたものだった。たとえば、開扉(御真影にかかっている幕をあけること)のために壇上に登った校長は、どちらの足から踏み出し、何歩進んで幕のところに到達せねばならぬといったたぐいの微細な行動を規定した礼法が、暗黙のうちに実行されていたのであった。こういう厳格かつ煩瑣な礼式は、御真影天皇そのものの分身であることを確認する行動として、なくてはならないものであった。p.101-2

これはまさに「儀礼」というものだな。それをあれだけ大規模にやれば、それなりの効果は見込めたのだろう。ここを含めて、「御真影」に対する議論は、先日読んだ『王権の修辞学』のような儀礼の文脈を読み込んで分析しているのでおもしろい。

新聞が商品である以上、御真影のあの無表情はもはや許されない。新聞に発表される人間天皇の写真は、全体としては戦後の大衆社会的枠組み内に閉じこめられたものではあるが、その一枚一枚をとり出してみれば、やはり少しずつ違ったところがあって、そのつどわれわれに訴えるものがなければならないのだ。しかも御真影の場合に、意味のとり方の規準となっていたあの奉拝という集団行動は、人間天皇の場合には与えられていないのだ。<中略>
このことは天皇を名とする大衆動員法の戦後における変質をものがたっている。家族制度の廃止をふくむ一連の民主化の法律制定によってもはや父も母も絶対的権威ではなくなった。したがって終戦直後に見られたように、天皇が国民の慈父であるためには、現実に慈父としての、したがってまた人間としての温かみやなごやかさをみせなければならなかったのである。p.112

御真影などを通じた儀礼を核にした天皇制から、新聞を媒体にした家族的な天皇像への変化。さらに今ではテレビのワイドショーを通じたテレビスター的な天皇像。天皇と一般的な日本人の「コミュニケーション」はそのように変遷してきた。これから先、マスコミの各媒体は衰退していくだろうが、そのなかで「天皇」はどのような手段で国民を惹き付けていくのだろうか。テレビの地盤沈下は、地味に天皇制の危機かもしれないな。
ネットの時代には、ネットに適応した戦略がとられるかもしれない。天皇家の人間がみんなブログ持ってアルファブロガーになるとか、ニコニコ動画天皇家チャンネルができるとか。

戦前の天皇制は、すくなくとも明治以後の絶対主義君主制としての天皇制は、どのようにして日本国民の間に、支配権力を持ちえたのだろうか。
 私の理解するところでは、明治政府の構想した天皇制が、非常に深く日本人の土俗的な信仰や思考様式と結びついたからである。p.120

むしろ近代の天皇制はすぐれて近代的なものだと思うようになった。天皇を支える国家神道にしても近代に入ってからの創作物。むしろ、伝統の否定と言ってよいものだし。国学儒教を中核イデオロギーとして、新たに確立しようとしたものではないかと。

それは「皇祖皇宗」より承けた天皇の地位である。「皇統連綿」「万世一系」という常套句で表現された氏族制的祖先崇拝の意識、それは、戦後の家族制度の民主化と家族構成の単純化によって急速に消えさっていったもののように思われる。p.123

とあるシステムが急速に消滅すること自体が、それが社会に根づいていなかったことの証左ではないかと思う。明治に儒教的な家族制度を導入したが、それはやはり日本の家族の伝統とずれていたのだろう。だからこそ、たかだか、法律を変えたぐらいで、あっという間に移ろってしまう。

 南ベトナム人の執心として私の心に残っているのは、あの在野の政治家の語った言葉です。あなたの説明によれば、彼は、中部ベトナム出身の反共的ナショナリストで、一種の任侠の徒ということでした。「アメリカと自由主義諸国が、ベトナム共産主義との戦いに勝とうとするのなら、民衆の支持をえていて、清潔な、文官政権を南ベトナムにつくる以外にはない。しかし、これまでのところ、アメリカが支持してきたのは、多くフランス植民地時代の汚れた手を持つ者ばかりで、これらを南ベトナム民衆は、支持しなかった。共産主義との戦いで、何よりも重要なことは、民衆の支持をうることである。今度アメリカとの協力の下に、民衆の支持をえていて(popular)清潔な(clean)文官政権(civilian government)をつくるためには、アメリカはまず南ベトナムに友好の志を明らかにしなければならない。友好の志とは、つまり、ベトナム人ナショナリズムを理解することだ、と彼は、私に語っています。p.173

なんか固有名詞をいくつか変更すれば、イラクやアフガンにも通用しそうな言葉だな。「共産主義」を「イスラム原理主義」に変えれば。