柏木博『ファッションの20世紀:都市・消費・性』

ファッションの20世紀―都市・消費・性 (NHKブックス)

ファッションの20世紀―都市・消費・性 (NHKブックス)

 繊維産業の分類で目に付いた本を連続で読み中。身分制などの拘束から解放された20世紀の市場的なファッションとその背後である特定の服を選ばせる力、文化に内在する「権力」の重なりの中で、20世紀のファッションがどのように変化したのかを追う本、でいいのかな。この手の評論的な本はよく分からない。
 第一章は1920年代あたりまで。オートクチュールと百貨店。近代的ブルジョワジーは全体的な関連性を持った世界観を失い、アイデンティティの不安にさらされた。そのなかで新たな「まなざし」が組織された。断片的な個々の商品をパノラマ的に体験する百貨店やカタログ。また、モードを絶え間なく変化させていくことが、社会の変革を伴わずに市場を活性化するオートクチュールのシステムが、資本主義的市場経済のシステムに適合していたという指摘。
 第二章は二つの世界大戦の時代。総力戦の中のファッション。総力戦は階層や性別などに分かれていた社会を、国民経済の単位として直接個人をシステム化していった。それが後に個人を直接市場につなげることになった。また、制服による性差・階層差の隠蔽や機能性・動きやすさの強調、イデオロギーとデザインなど。
 第三章は戦後のアメリカの生活様式と市場社会。量産性と世界観を編集する者としてのデザイナー。虚構のアメリカの文化支配力。過去やさまざまな世界を換骨奪胎し、都合よく編集したイメージがファッションとして消費される。
 第四章はロックやパンクなどのカウンターカルチャーと市場。記号をめぐる闘争とそれが市場に取り込まれて、市場の活性化に使われてしまう。システム批判。
 第五章は80年代以降の東京のファッション。DCブランドなど少量生産品への欲望。差異と同質化の永久運動。ポストモダン
 ファッションからみた大衆消費社会とでも言ったらいいのかな。「イデオロギーとシステムに支配された大衆文化」のなかで、無視された問題。それとどう相対するか。そういう話なのかな。


 以下、メモ。

 冒頭でふれたように、こうしたうつろいやすさこそ、近代におけるファッションをとりわけ特徴づけているのである。古い秩序を保持しようとする社会では、衣服は秩序やシステムと密接に結びついていたため、今日のような手軽さで変化させるわけにはいかなかった。そのことが可能になるためには、誰もがどのようなものを身に着けようが自由であるということが前提になければならない。つまり、衣服に関する禁制や規制が解かれた社会であることが要請されるのである。p.20

「パサージュ都市は一九世紀第二半期に入るまでパリ人の目を楽しませる一つの夢である」とベンヤミンは述べている。消費空間であったパサージュを居住空間に転用することを提案したフーリエの戦略に目を向けつつ、ベンヤミンはパサージュが資本主義の夢をはらんだファンタスマゴリー(魔術幻灯)的な装置であることを指摘している。パサージュがファンタスマゴリー的装置であるとすれば、オートクチュールのサロンもまた、ファンタスマゴリー的装置として存在していたと言える。それは、繰り返すが、新しく台頭してきたブルジョワジーの特権性とともに、市場のシステムを維持するまさに”魔術的な”装置だったのである。
 ここでさらにベンヤミンのパサージュ論にこだわっておけば、一九世紀、そして近代とは夢の装置なのだとも言えよう。ベンヤミンはその夢からの覚醒を試みるために博覧会や商品や広告といった、時代そして集団の夢や幻想そのものに目を向けようとした。夢からの覚醒の契機が、市場システムの外にではなく、華やかな夢や幻想の中にあるからこそ、その膨大な夢と幻想に関する断片を、一九世紀のパリからサンプリングしたのではないか。夢と幻想の空間とは、言い換えれば、わたしたちが生活している、市場社会というこの社会のシステムである。そのシステムが、夢や幻想であり、時として無意識の抑圧の装置として機能していることは、今日多くの人々が指摘していることだ。そして、そのシステムの外部にこそ本来あるべき世界や社会があるのだということが語られもした。たとえば、後に詳しくふれるように、資本主義社会のシステムの外部の世界への脱出ということがたびたび唱えられたことも、そのひとつの例である。しかし、ベンヤミンは、システムの外部もまた、夢と幻想の世界でしかないと考えていたからこそ、その中にあっての覚醒ということを強調したのだろう。
 ベンヤミンが『パサージュ論』で行ったことは、都市現象に関する膨大な資料の収集と引用である。たとえば、街路、流行品店、モード、鉄骨建築、遊歩者、売春、賭博、鉄道等々に関する資料と引用がそこにはおさめられている。それは、ベンヤミンによる消費都市の情報のサンプリングとデータベース化の作業だったのではないか。p.36-7

 もし、ヴィオネの服が身体の清潔さを要求するものであるなら、二〇世紀の重要な文化現象となっていくことになる「清潔」ということを、結果として衣服のデザインによって、早い時期に人々に意識化させていたといえるだろう。ちなみに、二〇世紀のデザインの多くは「清潔」ということを意識化させてきた。家電製品の白色や、なめらかな表面処理はわずかな汚れを目立たせるし、また、使い捨ての容器や布巾など(たとえば、アメリカにおける紙製の容器や紙タオルなど)のデザインもすべて「清潔」さの妖精と関わっている。p.49

 制服(国民服)ないしは軍服、あるいはそれに類する衣服は、近代社会における理念と矛盾を内包している。第二次世界大戦中において、イギリスやアメリカだけでなく、ソビエトのような社会主義国家、そしてドイツや日本のようなファシズム国家においても、その強弱の差はあるにしても、制服的な衣服がデザインされた。資本主義と社会主義ファシズムは、近代のイデオロギー的対立を生み出した。いや、イデオロギー的対立こそ近代の生み出した構図だと言うべきだろう。相互に対立すると思われているイデオロギーを基本にした社会そして国家が、その対立の結果として引き起こした総力戦は、イデオロギーがすでに形骸化していたにもかかわらず、相互に自らの未来こそがあるべき未来であることを主張し、闘争へと向かった結果としてある。しかし、いずれのイデオロギーも、同じように制服的なファッションを生み出したのである。そのことは、対立するかに思える近代のイデオロギーが、どこかで共有するものを持っていたことを示しているのではないか。
 資本主義にしても社会主義にしてもファシズムにしても、どにようなあるべき未来社会、そして未来国家をつくるかということを主題にしていた。それは、かつての前近代的な社会に代わる近代のプロジェクトと言ってもいい。このプロジェクトは、新しい社会環境を構成することを目指していた。そして、その実現にあたって、すでに見たイタリアのファシズムがそうであったように、社会主義国ソビエトにおいてもマシン・テクノロジーの力や労働力が賛美され、そしてアメリカにおいても同様だったのである。それは、イタリア(ドイツでも同じだが)もソビエトアメリカも、未来へのプロジェクトのための手段が共通していたことを示している。つまり、誰もが豊かで幸福な生活ができる社会の実現という共通した未来への理念を持っていたということだ。たとえば、マルクスの社会理論もまた、線的な発展の先にユートピアが待っているという、いわばキリスト教的な救済思想にも似た発想(史観)を含んでいる。p.80-81


 消費と生産を交互に繰り返す経済的単位として位置づけられたわたしたちは、経済的合理性からすれば、経済的自立さえ得られれば、かならずしも家族を形成する必要がない。わたしたちの社会は戦後、実際にそうした方向に向かってきた。したがって、人々はそれぞれ、目に見えない市場経済のネットワークの中に位置づけられた個体(アトム)へと変貌することになる。近代家族はきわめて自然な成り立ちだという感覚をわたしたちは持っているが、それは実際には現状の経済システム、そして社会システムを維持する装置として人工的に形成されてきたという面を無視できない。だからこそ、そうした面から見るなら、わたしたちは経済的自立が可能となれば、家族という集団形態をとらなくてもかまわないことになる。人は皆、社会の隅々にいたるまで入り込んだネットワークの中でアトムとして生きるしかないのだ。p.87

 こうした状況の中で、旧来の規範的な家族形態は嫌がられつつあると。むしろ、でき婚や同棲からの出産という形態の方が、現在の社会システムでは適合的な形態なのかもしれないと思う。

 ブルックスもそうなのだが、衣服や装身具のメーカーの多くは、「神話」を持っている。そこでは、著名な政治家や俳優やアーティストが、そのメーカーの衣服や装身具を使ったというエピソードが語られたり、あるいは、その都市に古くからある歴史的存在(老舗)であることが誇示されたりする。
 このような「神話」は、近代の消費社会の中ではとりわけ浸透しやすいように思える。というのも、近代の消費社会では、個人の生活様式を規制するものは何もなく、誰もが他人に干渉されないでいられるという特徴を持っているからだ。こうした事態は、どのようにして自らのアイデンティティ生活様式を形づくったらよいか、という自らの生活様式への不安を逆説的に生み出してしまう。その結果、戦後のアメリカに関して言えば、ホーム・パーティのような形式で、自らの生活を他者のまなざしに意図的にさらすことが広がった。このことは、戦後の核家族の増大とも無縁ではないだろう。p.112


 アメリカの都市社会学者のクロード・S・フィッシャーは『都市的体験』の中で、アメリカにおける都市に対する一つのイメージについて、次のように述べている。


 一八世紀と一九世紀の新しいアメリカ文化は、都市生活に対して否定的なテーマを採用し、多くのヨーロッパ思想に見られる肯定的な「文明」のモチーフを控えめに論じた。これらの観念は、開拓者の英雄的な人物像と結びついて、アメリカの思想と文学に反都市的な辛らつさを与えた。「私は、アメリカの大都市を、道徳と健康と人間の自由にとって有害なものと考える」とトマス・ジェファーソンは書いた。彼は当時、猛威をふるった黄熱病の流行を、そのために都市の規模が縮小するならば、むしろ潜在的には祝福であると見ていたのである。ジェファーソン的な伝統においては、民主主義は田舎で育つものであり、都市の街区では病気になるものなのだ。アンドリュー・ジャクソンアブラハム・リンカーン、ジェニングス・ブライアンから、近年の大統領候補にいたるまで、政治家はしばしば自分が村落出身であるとして自らの徳を主張した。


 しかし実際のところ、アメリカの都市は、ジェファーソンが描く田園都市のイメージからはほど遠い、市場経済の闘争の場となっているのが現実である。たとえば、ロサンジェルスのかつての中心地は、八〇年代には、再開発不能の見捨てるほかない場所とまで言われていた。
 そうしたアメリカの現実は、アメリカの市場システムが生み出したことの帰結である。それはどこにも中心がなく相互の関連性だけで成り立つ、市場経済のシステムそのものをまさに映し出している。この中心性のなさが、他方では誰にでも了解可能な広告的フィクションを自らのアイデンティティとして生み出し続けているのではないか。したがってそこでは、いわば捏造されたアメリカのイメージが蔓延することになる。かつて、社会学者のジャン・ボードリヤールは、アメリカの都市は虚構であると述べた。虚構としての現実は、誰もが納得できるさらに強烈な虚構の存在によって、虚構であることが認識されなくなっているのである。p.125-6

 そういうアメリカの都市や社会イメージの虚構性が、それを他の国にそっくりひきうつすことを可能にしているのだろうな。『スラムの惑星』で言及された、発展途上国ゲーテッド・コミュニティが広告的イメージのアメリカをそのまま引きうつしている状況が思い起こされる。ルーツから切れたゲーテッド・シティにとって、そちらの方がアイデンティティ的に近しいのだろうな。

 市場経済システムによって、わたしたちの戦後ファッションは一見自由なものになったかに見えながら、実のところ、市場が送り込むファッションによって再編されていたにすぎない。いやそれ以上に、一見自由に見える大衆ファッションを演出したマスプロダクション・システムは、同時に、わたしたちのファッションを均質化(非差異化)したのである。その均質化したファッションを身に着けるわたしたちの姿に、戦後の平等(均質)な社会と豊かさの実現を見出してしまったりするわけだが、その均質化(非差異化)の状況こそ、すでに述べたように、差異を欲望して同一化してしまうわたしたちの引き裂かれた欲望に運動をプロモートした、市場システムの具体的な姿でしかない。p.183