性と暴力と表現

http://www.mojimoji.org/blog/0263
 はてこ氏の元の文章は、男女の「権力関係」の非対称と、二つの人格がこの上なく近接することによって起こる摩擦(対称的な暴力)がごっちゃになっていることが反発を呼んでいるのではないか。私自身も、あの文章には疑問を感じる。

「そのとおり、権力関係がありますね」と認めて、そのような構図があることをお互いの共通の理解の前提としましょうと確認するだけでも、少しは不安が軽減されることもあるのだが。

 男女の関係には非対称がある。セックスは女性への負担が高い。全くその通りで、依存はない。それは確認され、常識となるレベル。ここについては、受け入れられるし、そうすべきだと思う。しかし、そこから規制論に踏み込んでしまえば、それはまた、逆方向の「権力関係」の構築に過ぎないのではないか。
 このような「抑圧」は多方向に、錯綜した形で張り巡らされている。しかも、その大半は、通常、意識されない。特定の抑圧の問題を「規制」という手段で解消するのは、事実上不可能であり、新たな抑圧を生む可能性のほうが高いと感じる。特にジェンダーの問題に関しては。
 これに対するには、啓蒙・教育を通じた、新たな平衡の創出しか手がないと思う。その点では、具体的な事実を記した、対抗言論が重要だろう。だからこそ、なんども主張するが、性教育の拡充こそが重要なのだ。そして、それをメッセージが届きにくい人へ、どうやって送り届けるか。
 むしろ、下のような事実に即した啓蒙が重要なのだろうと思う。
今クリニックで起こっていること。?中学生、高校生の出産
今クリニックで起こっていること?幼い子への性暴力のほうが効果的な言論だと思う。
今クリニックで起こっていること?子どもを性暴力から守るために


 ここから表現の問題に踏み込むと、「不安」をキーワードに、表現を規制する議論をするのは、やっぱり駄目だと思う。
 不安を持つこと自体は理解できるし、それを尊重したいとも思う。しかし、それを法としてしまうのは、やっぱり問題。
 まず、第一は、乱用の危険性。この「不安」を根源とする規制は、他の旗印の隠れ蓑になってしまう可能性が高い。カナダの例に見られるように、むしろ多数による、少数派の抑圧に利用されてしまう可能性が高い。そもそも、大概の行き過ぎた規制が「不安」を基にしていることは、今回の青少年保護や青少年の自己決定権の抑圧に見られるとおりではないか。
 第二に、この「不安」をもとにした規制は歯止めが利きにくいということ。この「不安」というのは、男女の非対称に根がある訳で、陵辱ポルノの規制だけに終わらないのは明白なのではないか。最初は陵辱ポルノ、次は文学のそのような表現の抹殺、さらには女性を表現することが槍玉に上がるかねない。行き着く先は、タリバンの目指すのと同じところだ。この不安を突き詰めれば、男性の存在そのものが問われることになるだろう。そのようなミサンドリーに法理を与えることはできない。(ラディカル・フェミニズムの行き着く先は、そのような社会でしかありえないよなあ。あるいは、「男性社会」の悪いところを裏返した戯画的な社会か。SF的だが、男女の性器をどちらも切除して、生殖は人工子宮で体細胞クローンを培養みたいな社会にならないと、真の男女平等なんてできそうもない)
 結局のところ、表現と実際の暴力の連動が証明できないものを、「不安」を元にして規制するのが許されるのかということになると思う。
 フィクションの「表現」の内容と実際の行動の連動には、両義的なものがある。他の周囲の環境やメッセージと結合して、性暴力を促進するか、抑制するかが決まる。例えば、周囲が暴力に寛容な環境だとするなら、性暴力表現は現実の暴力につながりうる。逆の環境であれば、それは自身の悪を昇華することになる。周囲の文脈との関係が問題になる。
 とするならば、クローズドな集団内での行動の慣習、家族内での関係のあり方、そのようなところの慣習を変えていくこと。人のミクロな行動規範を変えていく。そんな地道な活動こそが大事なのではないかと思う。