主体と欲望と表象

http://www.mojimoji.org/blog/0266

 話を戻す。僕がリアルな誰かに対して感じる性的欲望は、その人との関係性抜きに考えることはできないし、その意味で、ポルノグラフィなんかで代替できるもんではない。一方で、ポルノグラフィを用いるときに感じる性的欲望というものは確かにある。あるけれども、ポルノグラフィに接する以前は、そういう欲望は感じなかったのではないか、と思う。どちらかというと、ポルノグラフィを消費することで、また見たくなるというような、マッチポンプ的関係の方が実感に近い。ポルノグラフィを見る習慣がある場合には、定期的に(それも、「新しいものを」)見たくなるし、見る習慣がないときには、わざわざ見たいということを考えることもない。

 然り、つまるところ、生身の欲望と想像上の欲望は、違うものなのだ。そして、そのどちらが大事かの、立場の問題に過ぎない。ここのブログ主は、身体の欲望こそ大事というが、私にとっては、想念の中で生成された理想像、それに感じる欲望こそがこの上もなく大事なのだ。
 しかし、ここで疑問に感じたのは、このブログ主の想定する「ポルノグラフィ」がどのようなものを指しているか。AVなどの実写動画と小説や絵画を通じた架空表現とに分けることができるのだが、ポルノグラフィを実写表現に狭く解釈していないか? あるいは、架空表現によって喚起されるものと、実写表現によって感じる欲望を、一緒のものと誤解していないか?
 今問題になっている事象は、架空表現を規制するか、しないかということなのだが。問う、貴方は小説とアニメで抜けるか。


 ここにきてやっと気づいたけど、ここに深刻なボタンの掛け違いがあるのではないかね。ネット上で見る限りは、二次オタは、大概、この生身と想像の二つを別腹として分けて考えている。が、これが全然理解されていないのだな。理想的表現たる小説や絵画表現になれると、逆に生身の人間の身体への欲望は、相当沈静化されてしまうのだが。ギャーギャー騒がしい、におう、何考えているか分からない。ノイズが多すぎて逆に萎える。
 自分基準を無制限に他者に敷衍してしまうことが問題なんだろうな。自戒も含めて。


 ブログ主は健康な心身の持主のようで結構なことだが、その健康さを他の人間にまで押し付けるのはやめてくれ。