「戦争遺跡後世に:市民グループ荒尾二造火薬庫跡を調査」『熊日新聞』10/5/27

 地域の戦争遺跡を後世に伝える活動をしている市民グループが26日、荒尾市にあった火薬工場・東京第二造兵廠荒尾製造所(荒尾二造)の火薬庫跡を調査した。火薬庫の構造や規模を図面として残すことで「戦時中の荒尾で、石炭がどのように利用されていたかを知る資料にしたい」としている。


 荒尾二造は1942年から終戦まで、大牟田・荒尾の石炭を原料に黄色火薬などを製造。生産した火薬は北九州市の小倉造兵廠に送られ、砲弾や爆弾に使われた。敷地の約300ヘクタールには工場、倉庫など500を超える建造物があったが、現在は20件程度が残るだけだという。
 市民グループ「玉名荒尾の戦争遺跡をつたえるネットワーク」は、荒尾二造の遺跡群の調査・検証を続けている。今回は県建築士会あらたま支部の協力を得て、現存する10の火薬庫跡のうち、がけを掘り込んだ造りの大型火薬庫跡を測量。内部や二重になった扉の構造などを記録した。
 同ネットワーク事務局の高谷和生さん(55)=玉名市=は「軍直営の荒尾二造では、全国の黄色火薬生産量の約3割が作られていた。万田坑などの炭鉱と他産業のつながりを考えることで、近現代史における『石炭のまち』の姿が見えてくるのではないか」と話していた。  (小野由起子)



 メモ。黄色火薬の3割を製造していたとか、やたら広い敷地だったらしいとか、結構派手な施設。荒尾は遠いから、よく知らない。


 適当に検索をかけていたら、こんな記事に遭遇:36話・トンネルや山が消えた国内最大の爆発事故(昭和20年)
 550トンの火薬が吹っ飛んで、147人死亡。トンネルが切りとおしにジョブチェンジですか… 接収に来たアメ兵のミスで、報道されなかったとかヒドス。