佐川美加『パリが沈んだ日:セーヌ川の洪水史』

パリが沈んだ日―セーヌ川の洪水史

パリが沈んだ日―セーヌ川の洪水史

 パリとセーヌ川の水害の関係を扱った本。前半は地理的な説明。パリ周辺の地形の形成、セーヌ川周辺のハード面の説明、セーヌ川の洪水のメカニズムとそれが人間の建設活動によってどのように変化したか。後半は、実際に起きた洪水の解説と治水の話。記録にあるパリの洪水を一章にまとめ、1910年の大洪水について一章をあてている。実におもしろい。人間活動が、災害をどのように変化させていくかを詳細に追っているのが興味深い。


 第一章はセーヌ川の概要とパリの現地形の形成。もともとセーヌ川は、バスティーユ広場からレピュブリク広場、サン=マルタン通り、オスマン・サン・ラザール駅、シャンゼリゼ西側に至るルートを流れていた(旧河道)。現在のセーヌ川の流れにはビエーヴル川が流れていて、「河川争奪」の結果、現在の河道を流れるようになったという。旧河道は湿地として残り、それと現在のセーヌ川で囲まれた島状の土地を地理学的に「サン=マルタン島」と呼ぶそうだ。意外に思ったのだが、セーヌ川北岸のパリ低地では、現在のセーヌ川の河道に近い南端が高く、北に向かって低くなっていくのだそうだ。川沿いの方が危ないと思っていたが、中心部の方がむしろ安全なのだな。


 第二章はセーヌ川をめぐるハード面についての説明。パリの河岸(かし)や橋、島々、航路・水深・川幅と現在は堰を作って水深が安定している状況などを説明。
 ここでは、河岸の構造と島の話が印象的だった。パリの河岸は、土地がかさ上げされ、その支持壁で覆われている。何百年も盛り土を繰り返しているということは、下には大量の遺跡が眠っているのだろうなと。あと、セーヌ川の島については、

 かつて、パリのセーヌ川の水面から頭を出している「島」は十八あった。現在はノートル=ダム寺院のあるシテ島とその東側にあるサン=ルイ島の二つだけである。1833年まで、サン=ルイ島の上流側にはもう一つ「ルーヴィエ島」があった。
 これら三つの島は、川が運搬してきた土砂が集まって堆積したものではなく、硬い地層をセーヌ川が削りきれず、そのまま島となって残ったものである。そのため、大規模な洪水が来たときでもその位置が移動することがない。その他の島は砂や泥が集まってできているため柔らかく、形や位置が変化しやすいものであった。わずかでも多くの土地を手に入れたいと考えた人々は、これらの小さな島に手を加え、使える土地に変化させた。島同士、あるいは岸との間にあった浅い流れは埋め立てられ、嵩上げされた小島は川岸やシテ島に統合された。p.40-41

ということで、主要な島は、岩盤でできていたようだ。どうにも、中州というイメージしかなかったから意外だった。


 第三章はパリの洪水のメカニズム。「地上からの浸水」と同時に、地下水位が上昇し地下室が浸水する「地下からの浸水」。橋脚などによる河道閉塞による水位の上昇、下水道や地下鉄を通じた浸水、氷による水害など、パリの水害のメカニズムと、水量計やどこまで水位が上昇したかの話。

 流量が増え、水位が上がることは、川にとってはあたりまえの自然現象である。それがおこる場所に人間が入り込み、生活するようになったとき、人々は「洪水による被害」を受けるようになった。
 洪水そのものを激化させ、被害を拡大させている原因は人間が作り出していることの方が多い。パリが都市として発展していくのと歩調をあわせるように、セーヌ川の洪水も激しさを増していく。人間の生活の利便性のために建設されたインフラストラクチャーが、パリを流れるセーヌ川の性質を変化させ、その結果、人々の生活を脅かすような洪水がおきやすくなった。p.56-7

 人間活動と災害の共進化。


 第四章はパリの洪水の歴史。古代から19世紀まで。記録にある限りの水害を拾い上げている。ここが一番資料集めに苦労したのではないだろうか。
 ローマ時代のシテ島の市壁が、シテ島内の水害を防ぐと同時に、水路を狭めて他の低地の浸水を悪化させた状況や、シャルル5世の城壁の防災効果などが興味深い。
 あと、中世から近世にかけてのヨーロッパの都市の橋は、上に家が立ち並んでいるので有名だが、パリに関してはわりあい頻繁に建物ごと流されているのが恐ろしい。セーヌの洪水はゆっくりと水位が上昇するので、意外と人的な被害は少なかったかもしれないが。それでも、この章では、人的被害が言及されているし。どれだけ死人が出ていたのだろうか。
 他の都市でも「ロンドン橋落ちた♪」なんて歌があるくらいだから、よく流されていたのだろうけな。Wikipediaロンドン橋落ちたがおもしろい。


 第五章が、帯でも扱われている、1910年の大洪水。日単位で詳しく描かれている。地下鉄が水害に脆弱だったり、地下からの浸水でインフラが軒並みダウンしていく状況、低地の市場や港で働く人々の失業など、近代都市での災害のあり様。
 ゴミ処理システムがダウンする状況と水が引いた後の汚物の処理がなんともすさまじい。つーか、ゴミ処理施設が機能不全になったからって、橋からセーヌ川に投げ込むって判断が無茶だな。

 大量消費生活を謳歌していたパリ市民は、一日あたり1320トンのゴミを出していた。(中略)警視総監レピンは、こう指示を出した。
 「増水した川の水の力で、下流へ運ばせてしまおう。パリのゴミを海まで流せれば御の字だ」
 ゴミを橋の上からセーヌ川に投棄することが決まる。文字通り「水に流す」作戦である。投棄場所はパリの上流側のトルビアック橋、下流側のオートゥイユ鉄道橋(1958年に廃止、現ガリリアーノ橋)の二ヶ所である。橋の上に集合したダンプカーから、人が熊手を使って川の中へとゴミを掻き落していった。
(中略)
 パリ市民は仰天した。泥水に混じってすさまじい量のゴミが流れてきたからである。パリ市がこの作戦を秘密裏に行っていたことが問題となった。マスコミはすぐに「川の流れに漂うゴミ特集」を組み、連載は2月7日まで続いた。水が勢いよく流れているうちはよかった。川の水位が下がり始めると流れの力も衰え、市内の河岸、下流の堰、そして川沿いの集落の川岸には、ありとあらゆるゴミが漂着した。パリよりも下流の市町村は猛然と抗議の声を上げた。p.164-5

 いや、もう笑うしかないけど、ゴミが漂着した側にはシャレにならなかっただろうな。あと、1910年の段階で、ゴミの処理にダンプカーが使われていたというのが興味深い。モータリゼーションがそこまで進んでいたと。


 最後は現在のパリの水害への備えと巻末の資料。地図に年表に参考文献となかなか充実している。おもしろかった。


 以下、メモ:

 マリー水路、グラモン水路では、水は淀んだようになっていることが多かった。流れがないことを利用して、そこは舟溜まりとなった。積荷を載せたまま係留された舟が倉庫代わりとなったことはすでに述べたが、マリー水路では、船の上で直接、野菜や果物を商う水上マーケットのようなものを、20世紀初頭まで見ることができた。p.46-7

 ( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェー

 川の流量が増え、水位が上がると、河床は受ける水圧も増加する。この水圧が、川の中へ染み出そうとする地下水の水圧よりも大きくなると、地下水の移動する方向が逆転する。このとき川の水位上昇と連動する地下水位の上昇が始まる。地下水の通り道となっている周辺の透水層へ向かって川の水が染み出し、川の水位と等しくなるまで地下水の水位を上げてゆく。透水層の砂や土の粒子のすきまを水が移動するので、地下水位の上昇は非常にゆっくりとしたものである。そのため、セーヌ川の水位が上昇し続け、水位のピークを迎えた日からひとあし遅れ、約一週間後に地下水の上昇が始まる。川の水位が下がれば川から地表面にあふれた水は引いてゆくが、地下水の水位上昇は急には止まらず、地上が乾燥してもなお、まだ高いままの川の水位と同じ位置になるまで上がり続ける。p.58-9

 地下水位の上昇による地下室の浸水というのは、日本ではどうなんだろうか。あまり聞かないように思うのだが。

 地下水の浸水被害は、その建物に住む人々に二次的な被害も及ぼす。パリでは、水道、ガスだけでなく電気も地下を通って届けられている。よく知られているように、電信柱が街中にないことがパリの美しさの一つになっているが、地下室に水が入ると、そこにある配電盤がだめになり、建物全体の電気が使えなくなる。p.62

 個人的には、このあたりの脆弱性を考えると空中架線の方がいいと思っているのだけど。熊本市内でも結構、電線の地中化が進んでいるけど、地上に置かれている変圧器(?)の箱が、結構邪魔だったりする。特に鶴屋の裏な。

 洪水になると、川の上流からさまざまなものが流れてくる。木、氷塊、船頭のいない船(岸に舫ってあったものが外れて流されていくる)、ときにはワイン樽までが、激流に乗って下ってくる。重量のあるものが橋脚に激突し、橋が落ちることがあった。また、漂流物は橋脚にひっかかり、支間をふさぎ、その上に新たな漂流物がからんで、ダムをつくった。この漂流物のダムは川の水を堰きとめ、上流側の水位をさらに上げた。次々と流れ着くものによってダムはさらに高さを増し、それにつれて水位も上昇し、最後は橋げたの下は完全にふさがれてしまう。橋の下を通り抜けることが不可能となった川の水は、橋げたの上を乗り越えて流れていく。普通、橋げたの方が川岸よりも高い位置につくられているので、橋の上に上がった水はそこから周辺の土地へも流れ落ちていく。漂流物のダムができると、ダムが受けている非常に高い水圧を、橋全体で支えなければならない。その強度が不十分であれば、橋はダムとともに破壊され、崩れ落ちる。p.71

 1953年の6.26水害を思い出させる話。この時、子飼橋の橋脚に漂流物が溜まって、倒壊している。→http://bp.kumanichi.com/photo/archives/list?page=18&words=%E5%A4%A7%E9%9B%A8

 「川」であったセーヌが「航行水路」として大きく姿を変えた十九世紀であったが、相変わらずパリは洪水に襲われ続け、人々は冬になれば不安になった。建築家シャルル・ガルニエも、そんな一人だった。彼の名前を歴史に残すことになるオペラ座(オペラ・ガルニエ)の建設が、1861年に始まる。ガストン・ルルーが二十世紀初頭に書いた『オペラ座の怪人』の舞台にもなっている大劇場である。小説の主役である怪人は劇場の地下、地底湖のほとりに住んでいる。怪人の存在はフィクションだが、地底湖と呼べるものは実在する。
 オペラ座の用地が決定した頃、このあたりには高さの低い小さな建物と、農地しかなかった。大きな石造りの建造物を支えることができない軟弱地盤だったからである。オペラ座の建設用地はパリ低地の中、セーヌ川旧河道湿地の中にあった[図4-17]。これまで述べてきたように、旧河道湿地というのは周辺からの地下水が集まりやすく、地下水位も高く、川によって運ばれた軟弱な地層が厚く堆積している。ガルニエはなぜ、このように極めて条件の悪い場所を、あの巨大な石の建造物の建設用地として選んだのであろうか。
 地面を掘り下げ、基礎工事が始められた。案の定、すぐに地下水脈にぶつかり膨大な量の水が工事現場に溜まり始める。しかも、その量は考えていたよりもはるかに多かった。
 劇場のすべてを支える基礎部分を完成させるためには、水を抜いて土地を乾燥させ、地盤を安定させなければならない。放っておけば五メートルの深さにもなってしまう。この水を抜くために、1861年3月2日から10月13日までの226日間、38馬力の排水ポンプ八台を二十四時間フル稼働させた。排水量の合計は「ルーブル宮の中庭の面積にノートル=ダムの1.5倍の高さをかけたもの」であったという。大量の水を強制的に抜いたことで、周囲の半径一キロメートル以内の地域にあった井戸がすべて枯れてしまった。
 次に水を抜いた地面に杭を打ち込んで地盤を安定させる工事が行われた。これも難工事で、四台の杭打ち機を使って、11月6日から翌年5月21日まで半年以上も作業は続くことになった。
 基礎工事が終わったからといって地下水がすべて消えてしまったわけではない。新たに地下水が供給されることを考慮して、劇場本体のさらに下、地下のもっとも深いところに水をためるための巨大なプールがつくられた。貯水のための空間を残し、その上から何層にも重なる劇場本体をつくり始めている。歌姫たちが歌い、踊るその真下に大きな池がつくられた。建設工事まっただなかの1867年、パリを洪水が襲った。川の水位が上がれば地下水位も上がることを知っていたガルニエは、自分が設計した石造りの建物は非常に強いが、激しい洪水に襲われたら、地下の構造は地下水の横からの圧力に耐えられないのではないかと心配した。道路面から十一メートルの地下につくられた面積二千五百平方メートルの大きな空間に逆に水を貯めて、その水圧を利用すれば地下水の圧力に耐えられるという計算結果がでていたにもかかわらず、である。今もなお、完全防水の壁の内側には、どこからともなく地下水が染み込んできている。現在この人工の地底湖には、ある程度水が溜まると自動的に排水ポンプが作動し、水が抜かれるシステムが完備されている。p.144-6

 「オペラ座の地下プール」。そういうつくりになっていたのか。つくづく、フランス人は地底世界が好きなのだな。
オペラ座の音響室
フランスかぶれの手帖 パリの地下世界

 収蔵品大移動マニュアルを準備した美術館の中には、ルーヴル美術館オルセー美術館、ポンピドゥー・センターが含まれている。ルーヴル美術館オルセー美術館では、セーヌ川上流部に建設された貯水池によって1910年のときほど水位が上がることはなくなったことをうけて「地下収蔵庫への浸水はない」という前提のもと、整備、改造工事が行われ、現在の建物が完成してしまっている。ポンピドゥー・センターは地上からの浸水よりも、下水の逆流による地下室の浸水被害に見舞われる可能性が高い。1940年、第二次大戦中に美術品を地方へ大規模に疎開させた時以来となるこの救出プランは、520万ユーロの予算(2003年単年度分)、六百台を超えるトラックを使って十万点の美術品をパリ近郊に準備された広さ一万平方メートルの仮保管庫に移動させるものである。対象となっている施設は、ルーヴル美術館オルセー美術館、国立高等美術学校、装飾美術館、フランス美術館・博物館研究・修復実験所、そして、美術館の学芸員を養成するエコール・デュ・ルーヴルの六つである。p.208

 川沿いの建物で地下収蔵庫なんか作るなよ… つーか予算が凄いな。