原田勝正『鉄道と近代化』

鉄道と近代化 (歴史文化ライブラリー)

鉄道と近代化 (歴史文化ライブラリー)

 鉄道が明治以降の日本社会に与えた影響について述べた本。元は大学の講義だったものを、文字に起こしたものだそうだ。読みやすく、すいすいと読めるが、逆に言うとそこが問題で、ノートでも取りながら再構成しないと身に付かない。あまり具体例を出さずに、大枠を述べているので、読み流してしまうと後でとっかかりがない。一冊にエッセンスがギュッと濃縮されている感じか。

 乗合方式は、それまで話したこともなかった人々が一つの車両の中に乗り合わせるという、新しい社会関係を作り出します。近世封建社会の閉鎖的な共同体は、生活空間の閉鎖性にはじまって、人々の心を閉鎖的なものとしてきました。このような環境に生まれ育って、普段から付き合ったことのない他の村の人や他の階層の人たちと話し合うということが経験としてまずあり得ない状態、そういった人々と付き合うことはもともと禁止されているという状態、、そういう社会に生活してきた人々が客車に乗り合わせて、そこでお互いに相手を警戒するという気分を持ちながら、しかしそこに新しい社会関係を作り出していく。そうした習慣が、そこから生まれていきます。それはお互いに相手を人間として認めるという近代社会における新しい人間関係が、鉄道を通じて生まれていくということなのです。そこで彼らの世界に対する眼は広げられ、場合によっては人間観の変革を迫っていきます。そのことからまた、新しい社会関係の成立という認識がもたらされます。鉄道は、当時の日本人にとって、驚くべき画期的な輸送手段として印象づけられました。p.53

 うーん、江戸時代にも旅行や行楽は一般化していたし、趣味や学問によるネットワークも存在したわけで、こう決めつけるのはどうかなと思う。確かに、鉄道を日常的に利用すれば、そういう機会は増えただろうけど、そのような人がどのくらいいたのか。

鉄道と産業の発展
 ところが、実際にそのような幹線鉄道を造っていくと、その沿線地域で中近世以来続けられてきた産業が、鉄道の開業に誘発されて、製品を横浜や神戸に運ぶというようにして輸出産業の基盤を固めていくことになりました。とくに、繭・生糸、それから茶を横浜や神戸に運ぶ手段として鉄道が機能する。それによって、それまで手工業的な方法で生産されていたそれらの製品が工業化するという結果が生まれました。輸出品として、必要に応じてたくさんのものを造らなくてはならないという需要が生まれてくると、それまでの手工業的な方法によって造っていたのでは間に合わないということになって、そこから新しい工場を造って、動力革命を進めながら、生産力を高めていかなくてはならないという要請が生まれます。たとえば、静岡の茶は明治維新の後になってから、失業した武士たちが栽培を始めたものですが、その茶を輸出品として使えるということから、まず清水に集めて、そこから船に積んで横浜まで運んでいました。ところが、茶の葉はすぐに湿ってしまうので、輸送に時間がかかると売り物にならなくなる。そこで、早く乾燥させるために清水に工場を造って、静岡県下から集まってきた茶を清水で加工して、それを箱に詰めて船で横浜に運ぶことにしました。ところが東海道線が開通すると、清水で船に積み替えて横浜に運ぶよりも、生産地で直接貨車に積み込んで横浜に運ぶほうがはるかに能率的になります。そこで、横浜により大きな工場を造り、一気に生産地から横浜まで貨車で運んで、横浜で加工をしてすぐに船積みするという方法に切り替えていきます。それによって、工業化はさらに進みます。p.91-2

 このあたりは仔細に調べると面白そうだ。ただ、問屋制家内工業を主体にした産業も根強く存在したようだし、そのあたりは事実に即して考える必要がありそう。

設計技術の自立
 こうして機関車の設計製作技術は自立していくことになりました。汽車製造会社とか日本車輛会社とか、三菱、日立という民間メーカーが、たとえば一メートル七五センチという動輪を削る旋盤を備えることができるようになっていきました。この動輪旋盤を備えるということは、機関車製造に最も必要なことだったのです。この段階では、まだ動輪旋盤は国産化できませんでした。この動輪旋盤が実際に国産化されたのは1933年でした。日立製の動輪旋盤が、国鉄の大宮工場に入りました。この段階で動輪旋盤が国産化され、工作機械の国産化がほぼ完成したといえるでしょう。しかしそれでも輸入工作機械は非常にたくさん使われていました。実際に1960年代から70年代の初めにかけて、全国の工場を見て回ると、1890年製のイギリスの工作機械などはざらに使われていました。蒸気動力を電力に変えているけれども、電気ヤスリのような工作機械が全然支障なく使われています。だいたい70年から80年経っても、イギリス製のものは使えるという話を聞きました。日本の工作機械は、だいたい20年から30年で寿命が終わってしまう。狂いが出てきます。それに比べて、輸入工作機械の精度は、舌を巻くほど高いのだということを現場では言っています。この違いはどこから出てくるのか。それは先ほど冒頭でお話しした基本的な技術水準の高さによるものだと思います。p.127

 ジョンブル製工作機械の長生きっぷりがすごいな。あと、工作機械の国産化がずいぶん遅いことが印象的。このあたりで追いついたのは20世紀の後半に入ってからかもな。太平洋戦争直前には、高精度・高機能の工作機械を駆け込みで買ったりしていたわけだし。勝てる訳ないよな。

 しかもこの時期、ちょうど1910年代に入る頃、鉄道の利用度は旅客も貨物も年々高まっていきました。日露戦争後の経済活動や社会活動の活況がそれを促進しました。青森のリンゴが九州まで運ばれて青果市場に出回るとか、夏目漱石の『三四郎』では、熊本の第五高等学校から東京帝国大学に入学した小川三四郎が、九州の片田舎の小さな駅から東京まで旅行するとか、全国的なものと人の動きがいわば常識化していきました。p.134

 ムカッ

将来の広軌改築を見込む
 しかし、鉄道の技術者は、そのままこの広軌改築計画を放棄したわけではありませんでした。実際に鉄道の車両は狭軌用の車両であっても、いつでも広軌の車両として使えるように車軸を長くとっておき、広軌改築が実現したときには、いつでもその車輪の幅を広げて広軌用の車両として使えるような処置をとります。それからまた鉄道を建設するときも、トンネルの大きさ、橋梁の大きさを常に広軌用としてとっておくというようにして建設規格を広軌用に近いもの、または広軌用そのものに作り替えてしまうという処置もとられていきました。このような規格のあり方は、戦後新幹線が作られる直前まで維持されていきました。そして1922年に国有鉄道建設規程が作られ、広軌用の規格として定められましたが、その建設規格、とくに車両の規格はなるべき広軌用の車両の規格に近づけておくという処置がとられました。ですから日本の鉄道車両狭軌用の鉄道車両なのですが、限度いっぱい幅を広げ、高さを高くするという処置がとられています。そういう準備をしておいて、常に広軌改築を実現できる方針を考えておくという方法がとられました。機会があればいつでも広軌の鉄道を建設できるという意図をはっきり示したのでした。p.145-6

 現在では、在来線を広軌に広げるのは非現実的なのだろうな。

 そこで、何とか鉄道敷設法を改正しなくても鉄道を敷設できないかということになって、鉄道敷設法を改正しなくてもつくれる鉄道を軽便鉄道として位置づけるということになりました。1910人に公布された軽便鉄道法がそれです。この場合、「軽便」という言葉の意味は、必ずしも規格が低いという意味ではなくて、手続きを簡素化したという手続き上の軽便という意味が大きいのです。軽便鉄道というと、一般の鉄道よりも低い規格でつくられた鉄道、たとえば軌間もせまいし、車両も小さいと考えがちですが、しかしここで言っている軽便鉄道はそれも含むけれども、規格は一般の鉄道と同じ規格を採用していても、手続きが簡素化されたものなのです。ただ、この軽便鉄道は、軌間の制約もない、曲線・勾配の制限も緩やかで、停車場の設備も簡単なものでよろしいということになりました。p.158

 はー、軽便ってそういう意味だったのね。

 その上に、1945年2月以降、陸軍による本土決戦計画が立てられていきました。これにより、連合軍が上陸してくると予想される地域に、どのようなかたちで兵力を集中するか、そのために鉄道の組織は全面的に軍の指示によって動かなければならないという体制がとられていきます。鉄道義勇戦闘隊という組織を作って、それまでの鉄道の組織を国鉄・私鉄を通じて軍事組織として運営するという方策が立てられ、さらに7月以降、そのような鉄道義勇戦闘隊が鉄道を動かしていくという体制が作られていきます。p.194-5

 なんというか、明治の前半に逆戻りって感じだな。