森永貴子『ロシアの拡大と毛皮貿易:16-19世紀シベリア・北太平洋の商人世界』

ロシアの拡大と毛皮交易―16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界

ロシアの拡大と毛皮交易―16~19世紀シベリア・北太平洋の商人世界

 ロシア史の専門の人によるシベリア地域の毛皮交易史の本。概説書として書かれたもの。おかげで、多少楽だった。
 幕末期の日露外交から説き起こし、その背景としてのシベリア開拓から北太平洋での毛皮交易の流れを述べる。
 第二章はシベリアの征服について。16世紀イヴァン雷帝の時代に、有名なイェルマークの征服からシベリアの植民地化は始まる。これに関して、イェルマークの活動を始め、ほとんどがツァーリ政府の統制から外れた私的な行為であり、占領後に政府が事後承認したことが特徴であったと指摘している。逆に言うと、シビル汗国以東には、清国の国境に至るまで有力な軍事勢力が存在しなかったということでもあるな。山賊まがいに征服されちゃったという点では、南アメリカなんかもそうなのだが。続いて、アムール川流域での清との対立、ネルチンスク条約・キャフタ条約による清・ロシア間の毛皮交易の開始。イルクーツクを中心とする毛皮商人の系譜。北ロシアやクルスクあたりから、イルクーツクに移動してくる商人がいて、割と密に本拠地との連絡を保っていたらしい。このあたり、地理的なスケール感がいまいちつかめない。どうやって連絡をしていたのだろうか。大陸スケールは不可解。このあたりの理解の限界は、遊牧民の国家の歴史でも感じる。
 続いて、第三章ではカムチャッカからアラスカ方面へのロシア人の進出。ロシア・アメリカ会社の前身であるゴリコフ・シェリホフ会社の設立と活動。第四章では、シェリホフの死とその後の対立。毛皮交易商人の再編。イルクーツク商人が主導権を握っての合同アメリカ会社設立から、シェリホフ家とイルクーツクの商人の主導権争い、さらに特権株式会社ロシア・アメリカ会社の設立。
 第五章、第六章はロシア・アメリカ会社のアラスカ経営。先住民との対立、毛皮の枯渇、食料供給の不安など、植民地としてのアラスカ経営には苦労が多かったようだ。個人的には、ロシア人と現地住民の関係が興味深く感じる。ロシア人同士での対立、先住民との対立の中で、ロシア人に与する先住民がかなりいたわけで、彼らはどのような関係を取り結んでいたのか。また、アメリカ人やイギリス人による北太平洋から広東への毛皮輸出との競合という事態も興味深い。中国とイギリスの貿易は、茶のヨーロッパへの輸入とそれに伴う銀貨の流出という議論が主体だが、輸出品としての毛皮というのにはもっと注意を向ける必要があるかもしれない。最終的に、ロシア・アメリカ会社は、清での毛皮需要が社会変化に伴って減少することによって、収益源を失い解散への道をたどる。ロシアのシベリアでの植民活動は、アムール川の開発へと方向が変化する。
 西村三郎『毛皮と人間の歴史』や下山晃『毛皮と皮革の文明史:世界フロンティアと掠奪のシステム』が英語文献を主な情報源にしていたのに対して、本書はロシア語史料を利用しているので、ずいぶんと視点が変わって興味深い。ただ、おかげで注を見るのが、なんというか。キリル文字は全然読めないので困るというか。英仏独語や漢字なら、書籍のタイトルくらいは理解できるが、キリル文字だと著者の名前からして読めないという… ロシア語に限らず、アラブ語や他のアジアの言語でもそうなんだけど、なかなか言語の壁は高い。


 以下、メモ:

 シビル・ハン国併合の二年前、一五八六年頃シベリアからヤサクとして納められた毛皮はクロテン二〇万枚、黒狐一万枚、イレツキー森林産のリス五〇万枚だったという。これだけでも莫大な数値だが、そこまで正確なのかは分からない。フョードル帝(在位一五八四-一五九八年)の頃には毛皮収入がロシアの国家歳入の三分の一を占めていたとも言われ、十七世紀半ばにスウェーデンに亡命したロシア人外交官コトシーヒンはシベリア毛皮の収入を六〇万ルーブルと証言しているが、一方で四〜十五万ルーブルにすぎなかったとの試算もある。ロシア政府の毛皮収入の具体的数値については、今後の研究が待たれる。p.46

 どれだけ獲っているという。そりゃ、あっという間に毛皮獣の資源が枯渇するわけだ。あと、ロシア史における毛皮の重要性。

 毛皮を求める武装集団の活動は国家的「軍事遠征」というよりも、私的な武装占領行為に近く、占領後に政府の事後承認が行われたところにシベリア征服の特徴がある。カザン・ハン国とアストラハン・ハン国の併合にはロシアにとってオスマン・トルコ、タタール諸侯の軍事的脅威からの解放という側面があった。しかしウラル以東への領土拡大に関して、政府はほとんど積極的な動きを見せていない。むしろシベリアは「ロシア帝国」の中央集権政策とはまったく別個に取り扱われており、当初は使節庁の管轄下に置かれ、その後一六三七年四月一日の勅令によりシベリア庁という独立官庁が設けられた。ここにヨーロッパ・ロシア地域における中央集権化とシベリアにおける行政権力の分散化という矛盾が生じることになる。p.47


 トルセーヴィチのデータによれば、一七六八年から一七八五年にかけて清に輸出された毛皮の年間取引枚数は約三四〇万枚から七一〇枚のあいだを推移している。一方、アルハンゲリスクからの毛皮輸出は一七六一年約二五万枚、一七七九年約三〇万枚程度であった。サンクト・ペテルブルグの毛皮輸出は一七七九年から一七八五年の間に約四〇万枚から一三〇万枚を推移していた(表2-2)。一七八五年以降に同港の輸出が伸びたのは、一七八五〜一七九二年にキャフタ貿易が中断されたためである。これらの数値が示すように、一八世紀後半の毛皮の清向け輸出はヨーロッパ向け輸出よりもはるかに大規模だった。p.75

 なんつーか、すごい量。毎年何百万匹もの動物が殺されていたということだよな。

 非ロシア人ではギリシャ系商人が活躍しており、一七六〇年代に船主ペロポニソフの名が見られる。また一七六四年、後にロシア・アメリカ会社の株主となるネジン・ギリシャ人デラロフが聖ピョートルとパーヴェル号に狩猟業者として乗り込み、活動を開始した。もともと南ロシアにはギリシャ系住民が居住し、トルコとロシアの仲介取引に従事しており、エカテリーナ二世治下でも商業特権を維持していた。このためネジンのギリシャディアスポラに特権商人が集まり、ロシア各地へ取引に出かけていった。彼らの活動が単にヨーロッパ・ロシア地域に留まらず、毛皮事業を介して遠く北太平洋地域にまで広がっていた事実は興味深い。p.91-2


キャフタで最も輸出額が大きかったビーヴァーの場合、フランスのカナダ産ビーヴァーの未使用毛皮(parchment)がオランダ商人の仲介でロシアに輸入され、モスクワで内毛(ビーヴァー・ウールbeaver wool)と皮革(ビーヴァー皮beaver skin)に分離・加工され、これがオランダ商人とイギリス商人によってフランスに再輸出された。ビーヴァー・ウールはパリ、ロンドンにおいてビーヴァー・ハットの材料として使用された。p.101-2


 しかし十九世紀前半におけるキャフタの貿易内訳を見ると、輸出品目に占める毛皮の位置が徐々に変化したことが分かる。ロシア毛皮の輸出のピークは一八二四年の四〇八万ルーブルで、この年を境に毛皮輸出は減少していった。これに対し一八二〇年代から綿織物の輸出が増加し、ロシアは中国製綿織物の輸入国から国産綿織物の輸出国へと変貌した。これはロシアで綿織物工業が勃興したことと、清国内の嗜好の変化により毛皮需要が減少したからである。ロシアは毛皮の穴埋め商品としてドイツ製のラシャを清に中継輸出していたが、国内紡績業の成長によって綿織物の輸出国へと脱皮した。このため清はペルシャ、ブハラと並ぶロシア製綿織物の主要市場となった。塩谷昌史氏の調査によると、ロシア製綿織物は事前に中国人の嗜好を把握することによって中国北部地域を中心に受け入れられたのに対し、イギリス製綿織物はマーケティングの失敗によって中国市場であまり受け入れられなかったという。産業革命の先駆となったイギリスの綿織物が中国市場で振るわなかった事実はアヘン戦争との関連で注目すべきだろう。p.175

 この場合、ロシアの綿織物業は当然機械で織られたものだろうな。一方で毛皮の地位は低下する。