林玲子『江戸店の明け暮れ』

江戸店の明け暮れ (歴史文化ライブラリー)

江戸店の明け暮れ (歴史文化ライブラリー)

 江戸時代の商家、上方に本店があり江戸に出店している豪商の店がどのような活動をしていたか。白木屋呉服店の史料を中心に整理している。主に、帳簿類、内規、業務日誌「万歳記録」などを利用して書かれている。タイトルから連想されるような社会史的なものではなく、むしろ経営史的な内容。まあ、江戸時代の末端の奉公人やら丁稚なんかが、どのような日常を過ごし、どのような喜怒哀楽を抱いて生きていたかなんていうのは、史料の残り具合からして、明らかにするのが至難の対象なんだけど。
 内容は江戸店の概略。どのような商業活動を行っていたかということで関東周辺での農村で生産された絹布の仕入れの仕組みや販売と掛売りの決裁について、店毎の数字の符牒について。後半は「万歳記録」を利用して、奉公人がどのような生活をしていたかについて。支配役の退職や病気療養や使用人の死亡、従業員の不祥事と解雇、打ち壊しへの対応など。興味深いと同時に、微妙に隔靴掻痒感のある史料だな。最後は明治に入ってからの変化。
 個人的には、第二部にあたる江戸店の商業活動が興味深い。関東地方の農村で織り出される布類を買い集め、京都で仕上げ加工を施し、江戸で販売するというのが主な業務の流れだが、農村工業の製品を集めるために各商業中心地の有力者を「絹宿」とし、そこの「場造」に実際の実務を担当させた状況。あるいは販売にしても、江戸内だけでなく、関東一円にも得意先があり、掛け売りで販売していたこと。決済のために、関東を幾つかの担当区域に分けて、手代が集金に回った状況が紹介される。19世紀になると、この掛け売りの不良債権が膨らんだ状況も。あと、絹宿関係者や得意先への贈答が頻繁に行われていたことも興味深い。単純な商品とお金の関係だけでなく、かなりの人間関係の構築が円滑な商売には必要だったということなのだろう(これは現在でも変わらないかもしれないが)。


 以下、メモ:

 表奉公人の全員と一部の台所奉公人を含め、大部分の人々には苗字がついている。よく江戸時代には武士など支配階級以外は苗字が名乗れず、近代になってはじめて庶民も苗字がつけられるようになったということがいわれる。公式に「お上」に出す書類には苗字を記すことが許されないので、「宗門人別帳」には苗字付きの人はほとんどない。しかし、村でも町でも私的な苗字や屋号がないのは日常生活に不便であり、白木屋などの店の帳面で苗字が付いてない者は数えるほどである。ただし証文類に記すとき、苗字・名前を記名・捺印するが、商家なら「白木屋太兵衛(印)」といったぐあいに記名・捺印した。p.10

 近世の庶民も基本的には、苗字を持っていたという話。公文書の世界では、完全に排除されてしまうが、こういうし文書の世界では、大半が苗字を名乗っているという。網野善彦の対談かなんかでも、同様の指摘がなされているのを読んだことがある。

 正規の奉公人ではないが、特定の江戸店を維持するために欠かせない人びとがいた。その一つが口入人である。遠く離れた上方で江戸店に見合う少年たちを、農村や町で探し出すことは本店の奉公人たちには難しい。どのような人びとが口入人であったかはよくわからないが、地域の様子をよく知りあの家の子供なら大丈夫と思われる少年たちを選んだらしい。貧窮で奉公しなければやっていけないような家だとあとあと厄介を起こすからと、ある程度裕福な家の子を狙ったようだ。p.15

 豪商の奉公人の出自。農村や町人のそれなりに上層から供給されていたようだ。

 とくに五代将軍綱吉時代の悪鋳、新井白石八代将軍吉宗の時代の良貨政策、元文期(1736-41)の改鋳などが有名であり、商品流通を研究していた私たちは帳簿類の扱いに悩まされた。現代でも何十年か前の小説で、給料や物価が登場してくると違和感を抱くことが多い。もし売上げを年々記載している書類が見つかった場合、その間にデノミがあったことがわからなかったら、実際には収益があがっているのに大損をしたと思いこむだろう。まして現金売買でなく売掛や年賦の多かった江戸時代、貨幣価値の変動に注意を払わないと大きな過ちををおかす危険がある。p.104

 中世ヨーロッパはもっとカオスだったりするが。滅多やたらと貨幣の種類や計算単位があるだけに、わけがわからない。価格史なんかでも、銀の含有量とか、実質賃金とかそんな形で指標を利用していることが多い。

 三井越後屋では店の費用で奉公人死者全員の名を彫った総墓と呼ばれる石塔を次々と造ったが、白木屋はどうだったろうか。文久3年(1863)9月の記録に、満照寺の「大村家家内衆中霊名石塔」が大破したので、店奉公人全員が出金して17両余で新規石塔一基と、旧石塔三か所修復した旨があるので、総墓ではなくとも死亡者全員の供養石塔があったらしい。他の江戸店でどうだったかは寺々の墓を調べるしかないが、寺そのものが消滅しつつある現在ではきわめて難しいだろう。p.140

 これって、中牧弘允『会社のカミ・ホトケ』(ISBN:4062583550)で扱われている「会社墓」の先駆的形態なのではないだろうか。そうだとすると、「会社共同体」をさかのぼって考える必要があるかもしれないな。

 諸種の庶民史料に接するなかで、私が考えることの一つに史料の重要性がある。政治史に首をつっこんでいないので確言できないが、いわゆる「お上」向け史料には不信感が強い。庶民が書いたものでも、どういう意図で書かれたか、誰が書いたか考えないと、すべて実態を表しているか疑う必要がある。p.186

 これは確かに感じるな。文書上の建前というか、フィクションと書いた側の意図の乖離が著しいというか。現在でも、「自由化」と言いながら、特定利害の利益誘導だったりするわけで、そのあたりは変わらないのかもしれないが。