山本博文『江戸を読む技法』

江戸を読む技法 (宝島社新書)

江戸を読む技法 (宝島社新書)

 うーん、なんというかネタの使いまわし感が。先に読んだ『教科書には出てこない江戸時代』とそっくりな文章が。こちらの本が出版年は先のようだから、こちらに書いた文章を、別の原稿にコピペしたのか。文章はともかく、題材は似たようなのが入っていたり。参勤交代の話や『葉隠』関連、武士の出世なんか。あと、阪神大震災に関連して宝永4年の東海・南海地震の時の大坂の被害状況を紹介しているが、海溝型巨大地震か直下型断層地震かの区別がついていないのはどうかと。
 既出じゃないネタは興味深い。秀吉の部将としての官兵衛とか、赤穂浪士や長崎での佐賀藩士と町人の喧嘩に見る「かぶき者」気質とか。武士による武勇の誇示には限りなく甘い幕府ね。大名や旗本の「外交」を担った留守居の話。家を潰すも残すも、留守居の腕次第。終末思想的な宗教運動としての天草・島原の乱
 本書の最も重要なのは、第四章の「江戸時代の調べ方」。刑事裁判の史料を解説しているところは、実際の裁判実務の良い解説になっている。密通で死刑か。続いての、刊行史料の紹介は、非常に便利そう。寛政重修諸家譜、徳川諸家系譜、柳営補任、御家人分限帳、徳川実紀などなど。活字化された近世史料を列挙し、どのように使えるかをガイドしている。ここだけコピーしておくか。門外漢が、なにを見ればいいのかを知るのに便利。
 元の本が96年出版で、それに加筆しているようだが、第三章を中心に、濃厚な90年代の雰囲気を残しているな。阪神大震災オウム真理教のテロ、北朝鮮との外交など、時事ネタ関連の文章がいくつか。一方で、今年の大河ドラマ黒田官兵衛の話など、最新トピックも加えられている。
 まあ、さくさく読むのには悪くない感じ。


 以下、メモ:

 それでは、なぜ長政は、広家らを調略できたのだろうか。それは、かつて官兵衛が毛利氏との「取次」を努めたことがあったからである。毛利氏が秀吉に服属したのちは、官兵衛は公式の「取次」ではなくなったと推測されるが、関係のある大名同士として書状のやりとりなどの親密な関係を維持していた。そのため、長政も広家とのルートを持っていたのである。
  (中略)
 豊臣政権への「取次」は、三成が独占状態になっていたため、黒田家と関係のある広家は、三成からあまり親身な「取次」をしてもらえなかったのである。これは、三成が親身に「取次」をしてくれることを渇望していた広家の気持ちをも示している。そして、黒田家は、「取次」どころか、三成に疎まれていたため、関係する者まで嫌がらせをされるような地位にいたのである。こう考えれば、長政が三成を憎み、関ヶ原の合戦前夜に、秀秋や広家に調略を仕掛けたこともよく理解できるのである。p.20-21

 中国地方方面の大名との取次を努めたことの意味。あと、三成の小物感。つーか、こういうことやっていて、よく家康を敵に回した戦争やる気になったな。しかも、恨みを持っている毛利家や吉川広家を見方に引き込むとか。

 すでに戦争はなく、喧嘩も両成敗とされる時代になっていたにもかかわらず、武士社会は、武士に戦闘者としての倫理を要求していた。いやむしろ、平和な時代になったからこそ、ことさらに勇気を誇示することが必要になったのではないかとすら思われる。そのような社会で自分の命と「家職」をまっとうするためには、「常住死身」の心掛けが必要だった。なぜなら、武士は戦闘者でなければならないからである。先の奉行は、喧嘩に加担して人を刃傷した者は法度に背き掟を破るものだと明言しているが、武士社会では、法度や掟よりも武士の法の方が重視されていた。武士は、法度に背いてでも武士道を立てなければ武士として生きていけないという矛盾した世界に生きていたのである。p.35-6

 なんともめんどくさい世界だ。

 史実としての赤穂事件を考える場合、最も重要なことは、彼らが本当に今考えるような忠臣かどうかということだと思う。そのポイントは、池宮氏も注目したように、討ち入りに参加した「義士」に切米取(知行地がなく米で給される武士)の下級家臣が多いことである。彼らは、本来、主君の恩義をそれほど受けるような存在ではなかった。それにもかかわらず、四十七人の三分の一以上を占める。これをどう考えればよいのだろうか。
 類似の現象は、忠義の最高の発露のように思われている「殉死」にも見られる。殉死者も、とても死ぬ必要もないような下級家臣が多い。彼らは、とるにたらない理由を言い立て、積極的に死んでおり、しかも子孫がさして優遇されてもいない。これは、拙著『殉死の構造』(弘文堂)で述べた通りである。
 おそらく、この両者には共通の基盤がある。私の考えでは、それは当時の下級武士に蔓延する「かぶき者」的気質であった。かぶき者とは、江戸時代の初期に見られる無頼派集団である。彼らは、仲間との連帯を重視し、ことさらに勇気を誇示し、いかなる秩序にも従わず、意地を大切にし、自らの「侍道」のためには命に露ほどの重きも置かない。かぶき者的気質は中小姓・徒といった下級武士や中間などの武家奉公人に蔓延しているが、上級武士や一部の大名にまで共有される普遍性のある武士の心性である。p.44-5

 殉死や赤穂事件の背景にある「かぶき者気質」。現代的な意味では理解できない心性か。

 この行き詰まりをもたらしたものは、先にもふれた「役格」であった。例えば寺社奉行なら寺社奉行に、役に伴う行動が要求される。その中に、支援に来る調役の幕臣に対する饗応なども含まれる。現代から見るとこれは冗費として真っ先にカットの対象になるだろうが、「格」を重視する江戸時代においては削れない性格のものであった。
  (中略)
 また、役務が奉公である以上、例外的にはその役務に就くことを断ることもあるが、それは奉公することを拒否することになる。だから病気などを理由に固辞するのであり、普通は困窮に苦しむことを覚悟の上で引き受けざるをえない。p.143-4

 役職に伴う出費は、自己負担なので、その出費に苦しむと。それでも、身分を示すものだけに削れない。