
- 作者: 高澤等
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2012/10/06
- メディア: 新書
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敗者の家族の運命なんかもいろいろと興味深いな。
石田三成の子供たちは、男子も含めて生き残っている。最終的には、津軽家の一門待遇を受けたという。家康の対応は、意外と穏健というか。三成に感情的だったのは、むしろ豊臣家臣団の敵対派閥だったってことなのかね。
豊臣家の出自も興味深いな。尾張中村の出身とされるが、実際にはその周辺にコネクションがない。実際は、信長の小物であった「猿」という人物と混同されたのではないかという。むしろ、尾張北部から美濃南部にかけて親族やその他の人間関係が存在していて、そのあたりの村落上層から武士下層くらいの出身だったのではないかと指摘している。あるいは、鍛冶の関氏との関係から、武家と関係の深い商工業者だったとかもありえそう。その後、豊臣氏は公家との婚姻が進んでいるというのも興味深いな。関白経験者の家系ってことで、抵抗感がなかったということなのだろうか。
家康の長男で、家康と対立して切腹させられた松平信康の娘たちの子孫は、小笠原家を中心に西国の外様大名に広がっている。対立して切腹させられたとはいえ、家康の子孫ということで、大事にされたんだろうな。
武田家や今川家は、名門でもあり、重視されたようだ。忠臣蔵の吉良上野介も、今川氏真の子孫であったとか、高家として登用されていたとか。
一方で、血脈の強調や、信康や三成の子孫維持に配慮がなされていたというところは、なんか微妙に感じる。このあたりは、当時の親族意識や家系意識について、踏み込んだ議論が必要な問題だと思うが。江戸時代中期以降は、由緒が重視するようになるから、そういう点で有名人の子孫は重視された可能性はある。江戸初期の三代ほどは、直接関係があるから、縁戚関係に配慮されただろうというのは思うが。
以下、メモ:
だが一方で、すでに長篠の戦いで武田軍に対して圧勝した経験がある織田軍将兵にとっては、もはや恐れるべき相手ではなくなっていたに違いない。そしてもし織田氏と戦うことがなかったとしても、群雄ひしめく戦国時代にあって、急速に膨張した武田氏が領国を長く維持し続けることは困難だったのではなかろうか。
武田氏の軍略の根幹は、国人の内憂を外征によって目を逸らす意図であったように思えてならない。領国に自給できるだけの生産性を確立できなければ、いずれは瓦解する運命が待ちかまえていたはずである。p.16
確かに、武田氏の領国統治体制が勝頼によって、長篠の敗戦後に整備されたと聞くと、そういう側面があったんだろうな。国人連合という体質を克服できなかったと。まあ、たいがいの戦国大名は、克服できていないし、生き残った大名にしてもその克服は関ヶ原まで持ち越していたりするんだけどな。
あえていえば信玄は反信長という、武田家にとって致命的な負の遺産を置き土産として死んでいったのである。武田家滅亡の種子はすでに信玄が蒔いていたと考えられる。
日本史ファンは「信玄が病死せず、もっと長生きしていたら……」という仮説で楽しむことが多いだろうと思う。地元山梨に住み「信玄公」と敬愛する人々にとっても、信玄にもう少しの寿命を与えてくれたなら京に風林火山の旗を立て、天下に覇を唱えたのではないかと考えるに違いない。
しかし、私は逆に「織田家と良好な関係を保ったまま信玄が一年早く死んでいたら」という想像をよくするのである。
たとえ信玄が長命でも、武田家が領地を保ちながら生き残ることは決して容易ではなかったはずだ。それでももし信玄が一年早く死んでいたら武田家にとって少し違った結末があったのではなかろうか。p.23-4
うーん、どうだろう。信長は、境を接した戦国大名と、軒並み敵対関係になっているから、遅かれ早かれ武田家も敵対関係になっていたのではなかろうか。まあ、信長のあそこまで執拗な恨みを買うことはなかったと思うけど。