渡辺音吉・竹島真理『筑後川を道として:日田の木流し、筏流し』

筑後川を道として―日田の木流し、筏流し

筑後川を道として―日田の木流し、筏流し

 日田在住で木材の切り出しや筏流しを経験した渡辺音吉氏の経験を聞書きした書物。1903年生まれで、小学校の高等科を卒業したあと、14歳か15歳で伐り山に参加しているから、1920年代から、ダム建設で木流しが廃絶する1952年までの経験を語っている。90年前から60年前の話か。今となっては、経験者もほとんどいなくなっているだろうな。
 ちなみに渡辺音吉氏は2008年に104歳で大往生を遂げているらしい→金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の発見者、渡辺音吉さん死去104歳
 山での木の伐り出し、伐り出した木材を小川を使ったり、修羅などで川まで下ろし、そこからバラバラの状態で丸太を日田まで流す。日田で筏を組み、筑後川河口近くの大川まで下っていく。大分と福岡の県境近くの荒瀬で筏を何枚かつなげて、さらに下る。荒瀬までを中乗り、そこから下流を下行きと呼ぶそうだ。上流ではあちこちに瀬があって難所があり、下流では潮の満ち引きに影響されたとか。あと、大川市の大川家具がなんで有名になったかも、よく分かった。改めて地図で工場の場所なんかを見ると、まさに筑後川の水運で木材が供給されていたことがよく分かる。
 細かい道具や用語、細かい日常のディテールもふれられていて、非常に興味深い。あえていれば、用語集なり、索引なりが欲しかった所。あと、多くの細かい地名が出てくるので、大縮尺の地図を横において読んだ方がよさそう。索引は、暇があれば自製してもいいんだけれど…


 以下、メモ:

 二間は本来十二尺じゃけどね、日田では二間物の短材を十四間で切りよった。なしかなら、日田の杉は根元ん方が曲がっちょるインタロウ杉が多いけどか、その曲がったところが大川で重宝がられよったき、そこも付けて持って行きよった。大川は家具の町じゃが、もとは船大工もうんとおって、根元ん方の曲がったところを板にして、家具やら建具やら船底やらに使いよった。それがために、日田材は、曲がったところの分も勘定に入れて、二間物を十四尺で切りよった。
 幹の根元ん方を板に分くと、面白い木目模様が出てくるたい。日田ではね、製材することを「分く」と言う。年輪を斜めに切るように分くと、建具やら家具やら欄間に使うとにうってつけの板になりよった。よく欄間なんかに彫刻した板があるじゃろ。あれはね、大水が出たときに山から流れてきた木の根っこを板にしたものじゃ。ああいう根っこなんかを板に分くと、欄間やら戸棚の扉なんかにちょうど良いような、美しい模様が出てくるたい。そんくらい重宝がられよったき、木を伐る前に根元まで掘って、下の方までなるべく生かして売りよった。p.18

 大川じゃ、箪笥やら長持ち、建具に船まで造りよった。木屋親方から「これを持っち行てから、売ってくりい」ち言わるるなき、曲がった木も大川まで持って行って、船大工の所を回って売ってきよった。
 根元ん方の曲がった木は榎津に持って行くと、二つに分いたり、小じゅので削るやらして、帆船の底板に使いよった。「小じゅの」と言うのは、小さな斧のことじゃ。多いときにゃ、そげな木を一桁なら一桁分、わざわざ筏に組んでから持って行きよった。
 大水が出ると、九重の方やらから流木が出てくるたい。川ん水の増えた中を押しもまれてくると、下の方に来るまでに木の皮は外れてしまうじゃろ。そげな木を大川の者が上手に板やらに分くと、面白い模様が出よった。木の股があると、研ぎ出して床の間飾りにしよった。だからね、大水で木の根っこやらが流れてきたときにゃ、大川で売るるなき、筏ん後にズーノで結付けて持って行きよった。
 うちにある、この茶箪笥も大川で出来たものじゃ。障子もそう、流木の根っこで作ってある。あっちの箪笥はケヤキで出来ちょる。うちの箪笥やら建具は、大川で出来たもんばっかりじゃ。その数寄戸も大川じゃ。大川に筏を持って行ったときに、建具屋で品物を見て、「これを送ってくれ」と注文しよった。大川の人たちもしょっちゅう日田に材木を買いに来よったなき、ついでに持って来てくれよった。
(中略)
 大川の人たちは、日田からばかり材木を仕入れよった。そして、箪笥やら建具やらを作って、日本国じゅうどこでもに売りよった。筑後平野から下には木がないき、日田から木を持って行きよった。だからね、ずーっと前から、福岡と日田は木の事に関しては共同たい。榎津と日田は兄弟のようじゃった。あそこの発展と日田の発展は、どちらもなきゃ成り立たざった。p.127-8

 イギリスなんかでも船材に使われたオークの木は、竜骨なんかに使うために曲がっている木が求められたというな。あと、建具などに、曲がった部分を使って模様を出していたという話が興味深い。

 大水が出ると、流木が有明海まで流れていって、片付くるとに半年ぐらいかかったという。あたしは、大正十年の筑後川の大洪水のすぐ前に、前津江村の雪が岳に行っちょったけどね、ちょうど田植えの加勢で家に帰っちょったときに大水が出た。あたしたちが伐った木は、島原まで流されたそうな。p.21


 あたしたちは、伐り山やら山出しの仕事がないときは、近所のどこかの家に皆で寄って「タヌキ寄せ」とか何とかいうとをしよった。「神おろし」というて、神様棚に御幣を切って供えて、お経を上げて、「誰を寄する?」ち。大部町の酎木石のおイチちいう芸者、これがいちばんタヌキじゃった。その人を呼ぶとね、タヌキの精か何か知らんけど、寄ってくるんじゃ。皆が「オンメクリクリハイソリバカテソワカ」と唱えよると、御幣を持ったおイチの手が震えて、踊り始むる。「何を踊れ」と言うと、芸者の踊るようなのを上手に踊りよった。
 まったく、人間の魂、精というもんは分からん。未だもって分かりもせんが。タヌキ寄せは、うちの近所に限らずどこでもしよったけどね、やり方を知っちょる者がおらんと出来んじゃった。
 タヌキ寄せは何かと言うと、遊びたい。自分たちに仕事がないき、そげなことをして、太鼓叩いて賑わいよった。昔の遊びは念が入っちょる。
 ついでにこれも話とね、あたしが子どもん頃は、英彦山の大本坊から山伏が水かぶりに来よった。水のいちばんようけ張る時分にね、一軒ずつ家を回って、「水を汲んで木戸口に差し出してくれ」と言うて回る。そして家ん前で、御幣を持ってぐるっと回りながら、水をかぶりよった。
 あれはやっぱり、修行してはおろうけど、水をかぶった瞬間にぐるっと回るとね、水が散ってしまうき、体は濡れんとじゃなかろうか?「あげん水をかぶるなら、十軒も家を回ると倒れてしまおうに、倒れんということは何かあるとじゃなかろうか?」ち、子ども心に不思議に思いよった。p.22

 遊びと民族宗教の間とでも言おうか。興味深い習俗だな。

 宿を借ったら、そこの家から米と味噌を買いよった。だからね、さっき話したようなトウキビ入りの飯もあった。そこの家に米やら味噌やらがないときは近所の家から買うて来よったけどか、近所にも分けてもらう味噌がないようなことも、たまにゃあった。そげなときはね、杣頭が駄賃取りに頼んで下まで買いに行ってもらいよった。塩サバやら塩クジラやらのお菜も、下ん方に買い物に出る者に頼んだり、駄賃取りに買うてきてもろうたりしよった。p.31

 献立は、朝も昼も晩も、ご飯と味噌汁じゃった。おかずが少ない分、米はうんと食べよった。味噌汁の具は、野っ原に生えちょる菜種の先の方やら何やらでね、昼飯を皆に届けに行くときも、「お菜になるもんはねえか?」ち、周りの新芽を見ながら歩いて行くたい。木の新芽は、茹でて和え物にすれば、たいがい食べらるる。でも、樫の新芽は渋うて食われんもんね。山ん方では、木を伐った後の山に火入れをしてカンノという焼き畑を作りよったき、山際やら道端にゃ、カンノの蒔き残りの種がこぼれて芽を出した菜っ葉も結構あった。そんなふうな新芽やら菜っ葉やらを見つけては、晩のお菜に使いよった。味噌を入れてフツやら何やらの和え物をしたりもしよった。フツというのはヨモギのことじゃ。p.32

 食生活のあり様とか、モータリゼーションの前には駄賃取りがかなりの雇用機会を山地では生んでいただろうとか。いろいろと興味深い。

 次に、そのカズラをどこから取ってくるかじゃが、筏組みの者たちはね、山ん方まで「カズラを裁ってくれ」と頼みに行きよった。山で根ざれやらをする人に頼んじょくと、カズラを裁ってきて、馬車引きに預けてくれよった。馬車引きというのは、山奥ん方から町まで馬車に荷を積んで運ぶ人のことでね、浜で筏を組みよる所までカズラを届けてくれよった。馬車引きに頼まずに、山ん方の人が自分で担うて持って来てくれたり、牛の背に載せて持って来てくるることもあった。カズラは目方が百二十斤になるように束ねて持って来てもろうて、「一斤(六百グラム)いくら」でお金を払いよった。p.74

 だいたい大正から戦前の話なんだろうけど、かなり山奥まで馬車が行きかっていたのだな。交通史的に興味深い証言だろう。

 日田にも川下から船が上がって来よった。日田まで荷物を載せて行き来するとは小さな船でね、小さいなりに、筵旗のような帆を上げ下ろししよった。
 日田に着くまでにゃ、大明神にように流れの荒い難所がいくつかある。そげな急流を通るときにゃ、船に乗っちょる者たちが降りて、船から延ばした長い綱を肩にかけて、五、六人で岸の岩角やらにしがみつきながら、船を曳いて上りよった。荷主は船に乗っちょって、船が岸にぶつからんように棹で方向を調節しよった。そして、淵まで行ったら、綱を外して、また皆で船に乗って、帆を立てて上がりよった。p.102-3

 水運といっても、中上流で川を遡上するときは大変だったようだ。こういう苦労をするなら、曳き道でも整備すればよかったんじゃって気もするが、氾濫する度に流路が変わるんなら、意味がないか。

 筏ん上じゃ、いつも火を焚きよった。カマスやら土手の葦やらを敷いた上に土を載せて、そん上に焚きもんを置いて、火を焚きながら下りよった。下行きしよると、蚊がうんと寄ってくるなき、蚊取り線香のない時分は、焚きもんの上で米糠を燻して、蚊を避けよった。そして、火を絶やさんなね(絶やさずにね)、筏ん上で飯を食うときにゃ、飯盒をかけて飯を焚きよった。p.107

 筏の上で火を焚くんだな…

 船頭は家財道具やら鍋釜やらも船に積んじょって、船ん上で生活しよった。夫婦連れもおりゃ、城島から下はたいがい船が大きいなきね、子どもも一緒に一軒全部乗っちょった。ある程度の年になった子は親元に預くるじゃろうが、乳飲み子のような小さい子は船に乗せちょった。p.120

 家船みたいだな。限られた空間を行き来するだけだろうけど。機帆船の一杯船主みたいだな。

潮先水
 あたしたちも水筒は持って行きよったけどね、川ん水も飲みよった。川ん真ん中の方は水が美しいき、久留米ぐらいまでは川ん水が飲まれよった。
 久留米から下になると、川ん水は、塩辛い水と塩辛うない水が一緒になっちょる。あっちの方は水が悪いき、「潮先水」と言うて、差し潮と引き潮の間のちょっとの時間に川から真水が取るるなき、それを大川で汲んで売りに来よった
 潮が満ちるとね、川ん水の流れが止まるじゃろ。その止まったときに、潮先水が取るる。流れが止まると、ごみはほとんど下に沈んでしまうじゃろ。水面に浮いちょるホコリを除くると、その下は水が美しいなき、この水を取る。潮が止まって、今から引こうか引くまいかというときに取るたい。潮時をちっと過ぐると、塩が混じるし、混じらんなら、ゴリというて、水の上ん方に浮いちょるホコリやら濁りが多い。
 大川より下の有明海沿いでは、どこでも潮先水が取るる。潮先水を取るときゃ、ダブスを船いっぱいに積んで、船で潮を追いかけて行きよった。ダブスというのは、たらいの大きなものでね、造り酒屋に大きな木の樽があるじゃろ、あんなようなものじゃ。それに潮先水を汲んで、陸まで持って帰りよった。
 潮先水は、ほんの雨水のようなもので、塩辛うはなかった。理屈を言や、塩辛うなきゃならんけど、塩辛うもなきゃ、甘うもない、美しいのは、そりゃあ美しい。生で飲まれて、おいしかった。潮先水でお茶を点つると、おいしいお茶になりよった。
 久留米ん住吉まで、潮先水を売りに来よった。大きな船にダブスを載せて、潮先水を持ってきて売りよった。大川の榎津に行くとね、どの家も甕で何杯、何杯と潮先水を買うて置いてあった。
 筑後平野が広いというがね、あそこで井戸を掘ると、葉っぱやらなんやらの腐った泥に行き当たって掘られざった。大水が出ると、筑後平野は浸かってしまうきね。
 大水のときは牛や馬を小屋の二階に上げて、牛の鼻ぐりと馬のかませガネに綱を付けて梁に結付けちょった。なしかなら、あの辺の水の増ゆるのが早いたい。引くとも早いけどか。差し潮のときにゃ、海からも水が上がってくるきね、水が引くまで牛と馬を小屋の二階の梁に繋いじょった。ただ、大水のときでも、善導寺だけは浸からざった。p.121-2

 川の水を生で飲んでいたそうだが、今の人間がやったら腹を壊しそうだな。このちょっと前に、川の中で用を足していたなんて言っているし、そういうものが結構集まっているはずなのだが。あとは、筑後平野の水害とその対処。