内澤旬子『世界屠畜紀行』

世界屠畜紀行

世界屠畜紀行

世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR (角川文庫)

世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR (角川文庫)

 結構、読むのに時間がかかったな。結局、一週間ほどかかって、感想書くまでに三日ほど放置しているという。文庫になっているのを見かけて、元の版を図書館から借り出してきた。なんか文庫で読むと、絵が窮屈そうだったし。実際に家畜が解体されていく流れを、頭の中でくみたてながら読むと、意外なほど手間がかかったという感じ。
 本書では、テーマ柄、屠畜や皮革にかかわる人々への差別の問題についても、多く言及されている。ただ、この問題に関しては、「殺される家畜がかわいそう」というような部分では説明できないのではないだろうか。むしろ、もっとマジカルな感覚。死や死体、流血への恐れ、穢れの感覚が基底にあるように感じるのだが。自分の体験でいえば、父が魚釣りが好きで自分でさばいているのだが、釣ってきた状態から内臓を出したあたりまでは、なんか「死体」という感じで、触るのに抵抗があったりする。「肉」になってしまえば、平気なのだが。そういう恐れの感覚こそが差別の要因なのではないだろうか。360ページで述べているような、「獲物」から「死体」に変わること。それこそが要因なんだろうなと思う。それと無意識に形成された穢れの感覚。ある面では、著者はそのあたりの感受性に欠けているのではないかとも思える。
 探索の舞台は、韓国、バリ島、エジプト、イラン、チェコ、モンゴルと来て、中盤は芝浦の屠場を中心に日本の状況。どんなふうに肉が解体されているかを詳細に追っている。あとは、内臓や皮の利用など。その後、インドとアメリカとめぐる。インドの食肉業者への差別と衛生状態の悪さは強烈だった。あとは、アメリカの巨大食肉工場とか。あれはBSE検査は無理だわ。11章の皮なめしも興味深い。前近代の糞尿に一年間漬けてとか、タンニンを揉みこむあたりの大変さを考えると、クロムなめし剤でずいぶんと効率的に鞣革ができるようになったんだなと感じた。あと、なめし剤や染料などの廃液はどう処理しているのかってのも、気になるところ。バリ島の人々のあっけらかんとした感覚も興味深い。


関連:『ぼくらはそれでも肉を食う 人と動物の奇妙な関係』


 以下、メモ:

 ペーストを突っ込んだら切り口を縫い閉じる。ビニールの荷造り紐でやってるのが気になる。あれ、溶けちゃうんだろうなあ……。そしていよいよアレだ。p.49

 うーん、ビニールひもが溶け込んだ豚の丸焼きって、微妙に健康に悪そうな…

 これには「ヨーロッパ諸国の動物保護団体や政府から批判を受けていたことも多少関連している様子」という。もちろん衛生上の問題もあるだろう。EUの規定があるはずだ。だけど、それだけではない。喉をナイフで切ることを残酷な虐殺行為と見なして西洋諸国の動物愛護団体が、犠牲祭にクレームをつけているのだ。中でも女優のブリジッド・バルドーは、1998年、アラブ人を野蛮人呼ばわりまでして、パリの裁判所から、1万フラン(約1800ドル)の罰金を科されている。
 イスラムでは、動物は必ず生きた状態で屠らなければならない。動物をなるべく苦しませないために、四本の頸動脈をすばやく切って、腹を踏んだりしてどんどん血を出す。それのどこが残酷だというのだろうか。どうもよくわからない。かわいそうだから食べるなというのならば、まだ筋が通っている。しかし、二酸化炭素で気絶させてからなら残酷ではないと、だれが判断したのだろうか。それにナイフ以外の方法はコストがかかる。二酸化炭素ほどではないにしろ、電気ショックの設備だって、すべての国のすべての屠畜場が買えるわけではない。私には金持ちの傲慢な発言にしか聞こえない。p.92

 動物愛護運動に露呈している自文化中心主義、自分の基準以外は認めないって考え方は好きになれないな。基本的には、ヨーロッパ人は流血に対して忌避感を覚えるようだな。虐待を推奨するわけではないが、どう殺そうとたいして変わらないだろうにと思う。

「海がない私たちの国は、家畜を食べる伝統を持っています。中世では、職人組合、いわゆるギルト(チェコ語ではツェフ)があって、肉屋さんはそれに加盟していました。ツェフの中ではすべての職業が平等ですから、差別はなかったと思いますよ。p.96

 ヨーロッパの中世都市では、肉屋のギルドって結構重要だったんだよな。特に中小の都市では、大規模な輸出産業がないから、こういう地場を相手に商売する人が重きをなす。

「食はかならず、他の生物の犠牲のうえに成り立っている。植物や動物を食べているのだから、多くの命を奪っていることになる。ただし、植物に対しては、(中略)血を流すことがないために、命を奪っているという感覚は発生しにくかったかもしれない。また、今日のわたしたちの食は、あたかも台所だけで成立しているかのように矮小化してとらえられがちであり、生命の犠牲を想定しにくくなっている。いつの時代もそしていかなる文化圏においても本来、食というものは多くの他の命を奪うことにほかならない」p.117

 小長谷有紀『モンゴル草原の生活世界』朝日選書、1996から。他に、『モンゴル万華鏡:草原の生活文化』などの著作があるようだ。メモ。

 現在の韓国では犬肉を食べてもいいという法律もなければ、食べてはいけないという法律もないんです。これが問題なんですね。一切が黙殺されている、まったくの闇状態。だから正直なところ、昔ながらの犬肉業者は高い値段をつけて取引しています。屠畜のやり方も、基準がないからさまざまなんです。法律で食肉と認められれば取引も公正化するし、屠畜の衛生基準も設けられるわけですから、堂々と売ることができます。だから私たちは合法化に向けた呼びかけをしているんです。p.137

 順番に読もうと思ったのだが、悪名高き動物愛護運動家ブリジット・バルドーの祖国、フランスの領地であるポリネシアにも犬食の伝統が現存しているとか、過去にはフランス本土にも犬食の習慣があったとか、海外各地の犬食文化まで丹念に資料を集め、韓国への犬食批判に対して猛然と反論している部分に自然と目が行ってしまう。そう、ブリジット・バルドーイスラムの犠牲祭だけではなく、韓国の犬食にも強硬な抗議を展開していたのだ。1991年、韓国国会で犬肉を食用肉として認める法案の討議に入ったときも、すばやく抗議して取り下げさせている。

 別になに喰おうを構わないじゃないかと思うのだが。
関連:犬はおいしいかまずいか&なぜ今「日々の食卓」に上らないのか?
 まあ、第二次世界大戦時には結構普通に流通していた可能性があるし(『カレーライスの誕生』p.193)。伝統的に、食っていた形跡は残っている。

「一般には労働争議と言われるけど、それは屠場労働と差別の内実を表していないじゃないかな。東京都は屠畜解体作業を内蔵業者にタダで押しつけておきながら、内蔵業者が屠畜解体作業をやっているという事実さえ認めなかった。はじめの頃は、雇用関係がないという理由で、団交にさえ東京都は出て来ないわけ。『あそこには給与などにうるさくない集団がいるから大丈夫』なんて言ってたんですよ。だからこそ、タダ働きは部落差別そのものだとして、差別行政糾弾という形で闘いが組まれた。直営化を勝ち取るまでは、そりゃあ大変だったんですよ」p.181

 なんかでたらめだな。