食育の気持ち悪さについて――食の共同体 - 栄養学のメモと活用

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「日本型食生活」をやめよう - 栄養学のメモと活用
 上と関連して。「食文化」がナショナリズムの装置として動員される状況。前近代の食生活というのは、入手できる資源に制約されて、非常に多様だった。国単位で食生活の共通化が進むのは、保存移送が容易な穀物に限っても、18世紀以降。生鮮食品に至っては、コールドチェーンが構築されてからというのは、認識しておくべきだな。それこど50年もたたない前には、魚屋は需要と流通システムが整った都市部にしかなかった。魚の流通は、行商に頼っていて、それも鉄道の出現によって大きく変わった。
 しかし、バランスの良い「日本型食生活」が1980年代頃の限られた状況だったこと、1960年代には炭水化物過剰、脂質不足の状況にあったという。もともとの食生活は必ずしもバランスの良いものではなかったというのは興味深い。
 ただ、「食育」という概念そのものが不要かというと、そうでもないと思う。いかにバランスよく栄養を摂取するかの知識やその実践、そのための教育そのものは必要なことではなかろうか。たとえば、アメリカでは、階層が低いほど肥満になる状況なんかも、そういう知識の欠如が一因にあるといえようし。ただ、過度に「伝統の創造」に引きずられないことこそが重要なのではないだろうか。

少なくとも、伝統食や郷土料理は、貧しさをいかに乗り越えるかという地域の知恵によって生み出されてきたものが少なくない。長野県の昆虫食をよく知られているが、それは動物性蛋白質を摂取できない食生活ゆえだった。

 おまけの昆虫食については、マーヴィン・ハリスの指摘どおり。伝統食が貧しさをいかに乗り越えるかという知恵の集積であるならば、現代の「乱れた」食生活だって精神性において伝統食と同じ方向を向いてると言えるんじゃないか。

 ここには、「伝統食礼賛」と逆向きの偏見が見えるように思う。昆虫食が、肉食や魚食と比べて、「貧しい」のだろうか。むしろ、土地のある食材を楽しむという点で、それはそれで高度な文化の達成だと思うけど。特に昆虫食が嗜好品的な存在であるだけに。