村井吉敬『エビと日本人』

エビと日本人 (岩波新書)

エビと日本人 (岩波新書)

 日本に輸入されるエビが、どのような人々によって漁獲され、どのような経路で輸入されたか、そして日本のエビ消費の変遷を追跡した本。インドネシアのフィールド調査が主体。1988年刊行で、その点さすがに時間の経過を感じる。本書の元となった調査から、およそ30年ほど時間が経過しているわけで、その間の変化は大きいだろう。本書の時点でも、資源の枯渇が心配されるような状況だったが、現在はどうなっているのか。『エビと日本人2』が刊行されているので、そちらも要チェック。
 前半はインドネシアやオーストラリアのエビ漁の現場のルポ、台湾やインドネシアのエビの蓄養、出荷から冷凍までで働く人々のレポート。日本との格差、さらには外部資本の流入に伴って内部でも格差が広がる状況。外から入り込んだトロール船が、地先の漁場を荒らす状況や漁獲によって資源が枯渇しつつある状況を明らかにする。日本の資本と技術指導が隅々まで入り込んでいる状況も見える。台湾のエビ蓄養も興味深い。ものすごいリソースを突っ込んだ高密度養殖が報告されているが、これも現状はどうなっているのか。なんか、長期間は継続できそうにないやり方だなと感じる。総じて、大量のエネルギー・資源が投入されている状況が明らかにされるが、確かに「持続性」という側面からは疑問符がつく状況だった。このあたり、『魚のいない海』(ISBN:4757160410)が提起する問題と通じる。
 後半は日本国内のエビ消費の変化。もともとはおめでたいものとして評価はされていたものの、大量に消費されるものではなかったことが指摘される。これが、1960年代以降、コールドチェーンの整備に伴って、消費量が激増すること。流通側の主導で、いわば「食べさせられている」状況ではないかと、問題提起している。ただ、この辺のコールドチェーンの問題については、他の水産物との関連で、議論を深めるべきではないかと思う。冷凍輸送の普及以前と以後では、ずいぶんその形が変わってしまっているわけで。それをどう捉えるか。それは資源枯渇時代に、どう魚食文化を捉えるか、漁業はどうするかという課題の前提として重要だと思う。


以下、メモ:

 コールドチェーンは、生産地で冷凍加工した食品を、そのまま最終消費者まで運び、消費させるシステムである。家庭の冷凍冷蔵庫が最末端に位置するわけだ。一九六五年に、科学技術庁資源調査会が『食生活の体系的改善に資する食料流通体系の近代化に関する勧告』と題する勧告を出した。これは「コールドチェーン勧告」と呼ばれ、以後、このことばが次第に定着してゆく。
 日本人の食生活は、欧米に比べて、ミネラル、ビタミン、良質蛋白が足りない。塩からいもの(塩蔵・塩干品)ばかり食べるので、ガンや脳卒中も多い。もっと高品位保全食品、とりわけ冷凍食品を食べることが「近代化」なのだ、とこの勧告はいう。高品位保全食品普及のため、コールドチェーンを整備し、流通も「近代化」するべきだという。p.180

 コールドチェーンの整備が政府主導で行われたという話。まあ、漬物と塩蔵品ばかり食っている状況も健康的ではなかったわけで…

 トロール船で獲られるエビは、直接的に大量の石油を消費する。インドネシアののイリアン海域で操業する四〇〇馬力のトロール船が、年二五〇−三〇〇日操業し、エビ四〇トンを獲ると想定して計算すると、エビ一キロの漁獲に対し、何と石油一〇キロが必要になるという(宮内、『エビの社会科学』未公刊、一九八六年)。この数字には、冷凍加工や輸送に要するエネルギー量は含まれていない。捕獲するだけで、これだけの石油が使われるのである。これに日本に着いてからの、冷凍倉庫や輸送のためのエネルギーが必要であることを考えると、エビは一体いくらの石油を消費することになるのだろうか。
 遠洋マグロ漁では「マグロ一トンに石油一トン」と言われていたが、エビはその比ではない。トロールにかかった「くず魚」は、エビの七倍も一〇倍もの重さがある。これらは、海に棄てられてしまう。ここにも浪費がある。p.205-6

 すごいな。

 乱獲、くず魚投棄、トロール漁への抗議、マングローブ林の破壊、黒変防止の薬剤投与……、こうした事実を「現場」は知りぬいている。だが私たちには、大事件でも起きないかぎり伝わらない。消費者である私たちは、なるべく多くの情報を得て、消費行動をしたい。消費の背後に不公平や搾取、とりかえしのつかない生態系の破壊、あるいは生活の破壊などがあるのを知ったら、その消費にはブレーキがかかるだろう。p.213

 うーん、この状況を知っても、それでも食べてしまいそうな。食欲の罪深さというか。確かに、背後にある不公正に対処する必要はあるのだが…