長島要一『明治の外国武器商人:帝国海軍を増強したミュンター』

明治の外国武器商人―帝国海軍を増強したミュンター (中公新書)

明治の外国武器商人―帝国海軍を増強したミュンター (中公新書)

 1887年から1898年にかけて日本に滞在し、アームストロング社の代理人を務めたデンマーク人バルタサー・ミュンターの事績を明らかにした書物。果たした役割に対して、知られていない人物の紹介。実際、日清戦争の直前から日露戦争前の海軍拡張の時期に、アームストロング社の代理人として、ほとんどの主力艦の建造に関わっているのだから、その存在は大きい。日清・日露の両戦争で日本海軍が勝利を得ることができたのは、アームストロング社の速射砲の存在ゆえだったこと、日露戦争時の主力艦は米独仏で建造された艦も含めて備砲はアームストロングのものが搭載されたという、存在感の大きさ。
 ただ、情報源の問題からか、どのような関係を日本の高官と結んだのか。何度か示唆されているが、イギリスやデンマークの外交当局との情報のやり取り、諜報活動との関わりについても、具体的な活動はほとんど明らかになっていない。このあたりは未公刊史料、日本の海軍士官や政治家の個人史料やイギリス・デンマークの外交関係の機密史料を徹底的に探して、何らかの情報が出てくるか来ないかというレベルだろうな。難しい。特に、日本海軍がイギリス式・アームストロング社の速射砲の導入を決断する上で、どのような役割を果たしたかは、大きな問題だと思う。一方で、陸軍の要塞砲や野砲の輸入に関しては、クルップの後塵を拝したというのも興味深い。
 しかし、このミュンター、デンマークの主教を何人も出した家の出身で、海軍士官ということで、ずいぶんなエリートと言っていいだろう。ロシアやドイツなど、各国の海軍・要路にずいぶんと広い伝手があったようだが、当時のヨーロッパの上層階級の人的ネットワークというのも興味深いものがある。

次の課題、威海衛要塞の設計見取図に取り組んだ。二日しか与えられなかったが、鞄の中に入れてきた海軍学校時代の講義録と要塞造りの虎の巻、ブリアルモン将軍(Brialmont)の著書を参考に見取図の作成に着手した。そして、中国人の役人二人の協力を得て、予定通りに二日間で見取図を完成し、威海衛の要塞にはミュンターの案にもとづいてアームストロング社製の巨砲が据えられることとなった。p.83

 日本に防護巡洋艦を売った一方で、中国に対しては威海衛要塞の設計に関わっているという。威海衛要塞は中国海軍の基地として、日本軍に出血を強いた場であり、歴史の皮肉というか、死の商人らしい展開というか。苦笑するしかない。