濱田武士『漁業と震災』

漁業と震災

漁業と震災

 読むのにえらく時間がかかった。二週間以上か。途中で他の本を優先したりしたからだけど。なんというか、全体的に硬い。うーん。東日本大震災で被災した東北の太平洋沿岸地域の漁業が、どのような歴史的経緯にあり、どのような影響を受け、どのように復興が計画されているかをまとめた本。直接漁獲を行う漁業だけではなく、海産物の流通を担う流通サービス業や水産加工業にも目配りもよい。
 上からの「創造的復興構想」に対する批判的な感覚や漁村集落の「自治」が復興の上での鍵とであるという指摘には同意する。漁協が合併せず、地域単位の漁協が多く残る岩手では、現場主義の復興方針が策定され、比較的早期に加工業なども含めて再開している状況。それに対し、漁協が広域で合併し、またトップダウンの復興構想が策定された宮城県では、復旧が遅れている状況の対比が興味深い。区画整理などを考えて、広い範囲に建築規制をかけると、居住者も顧客も逃げてしまうのかね。
 全体的には、地道に現地を見て蓄積した人間関係や知識を下に議論がなされていて、堅実な印象。ただ、終章の「日本の自然のなかの漁業」で言葉がいきなり上滑りして、全体の評価はものすごい低下。漁業資源の枯渇の問題に対して、環境の変動のほうが乱獲問題よりも影響が大きいと述べているが、このあたり全然根拠がないよなあ。以西底引き網の漁獲量の変化なんかの数字を見ていると、やはり「乱獲」というのが、一番大きな要因に見えるが。あとは、欧米の環境保護運動への敵意やノルウェーなんかが導入している個別割り当てに対する批判も、どうも的外れのような。漁協などによる日本の近海における資源保護の取り組みがそれなりに成果を上げていることを理由に、個別割り当てよりも漁民の利害調整をと主張しているが、個別割り当ては基本的には沖合や遠洋漁業をターゲットにしたもので、著者が専門とする沿岸・地先の漁業とはあまり関係しないのではないかと思うのだが。漁港の能力を越える量を取り合って、結局、傷物になって安くしか売れないみたいな状況が多数見られることを考えると、船別の個別割り当てで、効率化することは、漁船を運用する側にもメリットがあるように思うが。このあたり、他の人の議論をそのまま繰り返しているようにしか見えない。全体の議論の信用性にもかかわる。
 全体を通じて繰り返されている「創造的復興」の否定と漁民・漁村の自治からの復興が大事という視点。最後の海産物の流通における「魚屋職人」の彼らと消費者のコミュニケーションの復権、「多様な個性を備えた人間の尊厳」をどう維持するかといったテーマは、それそのものは私好みというか、異論はないんだけど、ちょっと歴史を考えると疑問の感じる。確かに、漁村集落は地先や近海の漁業資源に関しては、紛争の調整に数百年の実績を持っている。しかし、現在の海産物流通の大部分は、そういう歴史の審判を受けていないのではないだろうか。外洋での大規模な漁業ってのは、大規模な水産会社の操業をいれても、100年もたっていない。遠洋漁業の普及は、戦後になってから。水産物の流通でも、コールドチェーンが整備されて、全国に鮮魚が流通するようになったのは、それこそ30年か40年程度前でしかない。実は取り戻すべき「何か」は存在しないのではなかろうか。「魚屋職人」の目利きといっても、それこそ一世代ほど前の築地のマグロが結構、今からの視点で見るとやばそうだったりするし→『聞き書き:築地で働く男たち』。
 東北の太平洋側の漁業事情に関しては、堅実な知識が手に入れられるが、どこまで信用できる書物かは、留保が必要という結論になる。とりあえず、一章が一番おもしろいかも。


 以下、メモ:

 こうした改革の議論には、混乱している地域社会やコミュニティを切り裂くような提言や言説、あるいは構想も少なくない。あらゆるものを失い、多数の尊い命が失われ、悲惨な状況のなかで立ち上がろうとしている被災地の復興を願うのなら、議論にはまず、「道理」「人道」または「品格」というものがあるべきではないか、と筆者は何度も被災地に通いながら感じてきた。
 東日本大震災は「天災」であり、それに伴って発生した東京電力福島第一原発の事故は津波に対して無防備であったことから「人災」だと言われてきた。さらにその原発事故は、放射能汚染の広がりとその影響から東北各地の農林水産物が販売不振に陥るという未曾有の被害まで招いた。こうした風評被害と惨事便乗型の改革論の出現は、「社会災害」とも言える、いわば「第二の人災」ではないだろうか。p.5

 実際のところ、「民間資本の導入」がどこまで効果的なのかは疑問だよなあ。豊漁不漁のリスクなんかを考えると、市場から買い付けたほうがリスクが少ないのは確かだと思うが。まあ、チリの鮭養殖なんかの規模を見ると、国際競争にさらされるものは規模拡大や自動化などの投資が必要かもしれないが。漁業権に関しても、資源問題を考えると、大々的な新規参入は無理だろうし。

 漁業労働者の還流がはっきりとしていた時代、沖合・遠洋漁業が休漁する一定期間を除いては、漁村では若い漁民の姿をあまり見ることができなかったという。とくに冬場の漁村は閑散としていた。冬季は時化が続き、小型漁船の出漁機会が極端に少なく、生活費さえままならなくなるから、高齢者でも男手は土木工や都市部の工場行員として地元を離れ、出稼ぎに行かざるをえなかった。p.20

 そもそも、自宅で一年を通じて生活をするというのが、ごく最近の形なんじゃなかろうか。漁民だと、前近代にも本拠地から遠い場所に長期出漁することはよくあったことだし。

 九〇年代はイワシ資源が激減したり、世界的にマグロ資源が低迷したりと、資源・ストックの問題が取りざたされてきたが、八〇年代までの旺盛な投資による負債が九〇年代中頃からの魚価低迷により固定化することで、漁船漁業は危機に陥った。すなわち漁船漁業はデフレ不況には抗えなかった。それは「漁場」問題よりも、「市場」問題が漁業を蝕んでいることに他ならない。構造不況からの脱却は景気循環に委ねるしかなかった。p.35

 80年代の「乱脈融資」から一転して、融資の審査が厳しくなった結果、漁船の新造などの設備投資が難しくなり、また、負債が漁業会社の経営を圧迫したと。ただ、資源が潤沢にあるなら、生産量を増やすなりの対応策はあったわけで、やはり「資源問題」でもあったんじゃね。

 以上のように、三陸では養殖業の業種構成が再編しながら、養殖業者の間で階層分化が進んだ。担い手漁民の中には、投資を続けて規模拡大を図り、四千万−五千万円という漁業収入を得る者が出現したり、さまざまな業種を組み合わせて一千万円前後の漁業収入を得続ける者がいたり、齢をとり細々と続けるという選択肢を選び、零細なまま養殖を続けたりする者もいた。かつて漁村社会は、同質・同規模な漁民が多かったが、現在では階層分化が進み、漁業所得の格差が生じた。地域ごとに傾向は異なるが、一千万円以上の漁業収入を得る担い手層と、漁業以外の仕事で収入を得ながら養殖業を営み、両収入で家計を維持する兼業者との格差が明確になったのである。漁村社会の高齢化が進み、もちろん後者の数が前者を大きく上回った。p.37

 輸入品との競争のなかで、カキ、ホタテ、銀鮭、ノリなど養殖の品種の変化を含みながら、経営規模の分解が進んだと。「漁村社会が同質的」というが、もともと、場所によるけど、網元支配なんかもあったわけで、いつから「同質化」したかを考える必要もあるのでは。

 かつて水産物輸出は国の外貨稼ぎの一角を担うほどであった。主たる輸出産品は水産缶詰、真珠、寒天、水産油脂、鯨油、塩干品であり、丸魚を凍結した冷凍水産物もあったが、それも缶詰原料としてが多かった。缶詰としてはサケ(カラフトマスなどマス類)缶、ツナ(ビンチョウ、キハダ、カツオ)缶、イワシ缶、サバ缶、カニ缶などがあった。三陸常磐からは、サバ缶、イワシ缶、水産油脂、干アワビ、冷凍サンマなどが輸出されていた。
 だが、二〇〇〇年以後に増加傾向をたどった水産物輸出は、かつての輸出とは状況が大きく異なっている。第一に水産缶詰、寒天、水産油脂といったかつての主要輸出産品は依然低調なままであること、第二にかつて輸出産品と認識されていなかった秋サケ、ナマコ、スケソウダラなどが急増したこと。第三に多獲性魚を中心とした冷凍魚の輸出が数量、金額共に加工製品の輸出を大きく上回り、その多くが東南アジアの缶詰原料に向けられるようになったこと、第四に中国、タイ、ベトナムといった加工貿易国への輸出が急増し、しかもその輸出した原料が加工されて、第三国へ輸出されるだけでなく日本に再輸入されるケースが少なくなかったことである。再輸入された半製品は国内で再加工されてチェーン・ストア、業務筋、コンビニエンス・ストアなどに流通した。p.38

 21世紀に入って、日本からの海産物の輸出が再び増加したこと。加工品ではなく、原料としての輸出が増えたと。加工国から原料輸出国に変化したというのは興味深いな。半製品の国際ネットワーク形成も。

 ギンザケ養殖について見ておこう。養殖業では、養殖経営体を系列化してきた企業の撤退が相次ぎ、養殖業者の淘汰が進んだ。岩手県では完全に淘汰されたが、ギンザケ養殖の最大県である宮城県では構造再編が進んだ。九〇年代初頭に経営体数三〇〇、生産量二万トン、養殖生簀数は一千を超えていたが、二〇〇三年には経営体数七四」、生産量九千一二〇トン、養殖生簀数が二二四にまで落ち込んだ。p.39

 養殖業の経営って、やはりリスクが高いんだな。10年くらいのスパンで、ごっそりと市況が変わってしまうのか。

 当時の水産物輸出の拡大基調は、老朽化した漁船の寿命が漁業の寿命とまで考えられていた状況を一掃するきっかけになるものと期待された。卸売市場を開設している漁港都市の各自治体は、輸出拡大を地域経済回復の契機にしようと、漁船誘致対策を進めた。旋網漁業やサンマ棒受網漁船あるいはカツオ一本釣船などの船主に自治体が入港を働きかけたのである。しかも青森県八戸、岩手県釜石、大船渡では、二〇一一年度の開業に向けて漁港の流通機能の再開発事業が進められていた。しかし、東日本大震災による大津波は完成間近の構造物をいとも簡単に破壊した。p.43

 輸出の拡大など明るい兆しがあったのが、東日本大震災でインフラが破壊されてしまったと。放射性物質の流出による風評被害は、この地域の漁業に想像以上に痛手だったんだな。

 少子高齢化と人口減少が進むなかでは、大量漁獲タイプの漁業では外需への依存が高まってくるのは当然の流れであろう。それを担っているのは、外需向けに販売を手がける地元の流通加工業者である。二〇〇〇年以後、彼らが競って海外マーケットを開拓してきたのである。リーマンショック以後も彼らの世界へのマーケティング活動は続いた。むしろ、リーマンショック以後の方が精力的であったとも思える。グローバルな販売ネットワークを築いておけば、円高から脱却したときにより収益をもたらすからである。p.44

 ものすごく間が悪かったのだな。

 しかしながら明治・昭和三陸地震東日本大震災とでは被害の状況は明らかに違う。それはとくに宮城県気仙沼市石巻市塩釜市、あるいは岩手県宮古市釜石市、大船渡市など、拠点漁港がある都市においてである。
 こうした漁港都市では、漁船の寄港地として機能しているだけでなく、水産物の取引機能、加工機能、物流機能などが備わっている。カツオやマグロあるいはサバやイワシなどの魚群を追いかけて漁獲した漁船が寄港し、漁獲物を水揚げし、卸売市場に出荷し、また一方で次の漁に向けて燃料や食料の積み込みなどを行う。卸売市場に水揚げされた漁獲物は流通加工業者が買い付ける。そして買い付けた魚介類に選別、下処理、箱詰め、冷凍、塩蔵、乾燥などの加工処理を行い、消費地へ流通させる。原料や製品は保管することもある。
 漁港都市には流通加工業者が立地しているがゆえに漁船が寄港し、漁船が寄港するから流通加工業者が立地するという相互関係がある。相互関係と同時に漁港都市間の競争が発生し、各漁港都市は発展した。さらに、漁業者と流通加工業者は漁獲物の価格をめぐって利害が相反するため卸売市場の機能が重要となり、漁船に航海に必要な燃料や食料などの積み込みを手配する廻船業者が存在する。それだけではない。漁船が寄港するから、船の建造・点検・修繕を行う造船業者や船舶機器・機関のメンテナンスを行う鉄工業者が立地する。
 こうして漁港都市は高度な産業集積地へと発展していった。漁港の背後には、卸売市場施設、冷蔵庫、製氷工場、水産加工場など水産流通加工関係の建屋・建物や、造船所、鉄工所、漁具倉庫、配送センターの車庫、船舶機器や漁具メーカーの代理店、廻船問屋なども立ち並んだ。これらの都市のなかには、漁港背後に水産加工団地や造船団地あるいは工業団地を整備してきた地区もあり、やがて漁港都市は水産基地と呼ばれるようになったのである。p.51-2

 水産物の流通が高度なインフラの集積によって実現されている状況。すでに鮮魚流通の段階でかなりの「加工」が行われていると。
 今も、食料や燃料の手配は「廻船問屋」によって行われているのか。

 岩手県宮城県におけるリアス式海岸では、カキ、ホタテガイ、ワカメ、コンブ、ギンザケ、ホヤ類、ノリなどが主に養殖されてきた。その他、宮城県ではクロソイというメバル類、岩手県ではアワビやウニの他、エジイシカゲガイというハマグリのような二枚貝(広田湾)、マツモという海藻、マツカワというカレイ類が見られた。養殖産品は一般に知られている以上に多様だったのである。p.67-8

 いろいろとあるものだ。

 ところで、水産加工業界の物的損害は、施設・設備などストック部分だけにとどまらない。原料、半製品、製品などのフロー部分もある。これらの数値は公表されていないし、おそらく正確には状況把握さえされていない。冷蔵庫に保存されていた数万トンにも及ぶ原料在庫・製品在庫は冷蔵庫ごと被災し、腐敗して廃棄処分された在庫がかなりの数量に上った。被災した水産加工業者への聞き取りによると、ワカメの加工業者はこれから収穫期に入るところだったので在庫量は少なく被害額は少なかったものの、魚類を取り扱っている水産加工業者では、原料を買い込んでいたため、各社とも被害額は数億円、多いところでは二〇億円以上にも上った。原料の被害額が施設の損害額以上に大きかった、という水産加工業者が目立った。p.75-6

 在庫品の被害。そういえば、腐敗したものの廃棄に相当手間取っていたな。しかし、とんでもない被害。

 こうして水産物の流通構造が大きく変化し、それを受けて分業関係にあった漁村集落と漁港都市の関係はさらに希薄になり、漁港都市を核とした地域経済が断片化していった。
 本来、各地の卸売市場を軸にした水平的ネットワークとして存在していた水産物流通が、消費地における小売業界の再編・寡占化が全国的に強まったことで、垂直構造に変質したのである。つまり水産物の価格決定の主導権が流通の川下側に握られてしまい、「漁村と都市」の関係が垂直的関係になったのである。ちなみに現在、消費者の水産物の購入機会の七割がスーパーマーケットになっていることも、こうした傾向を強めた要因であると言えよう。p.97

 水産物流通の構造変化と漁村の周縁化。

 岩手県では、「食糧基地構想」に引きずられる創造的復興を掲げることなく、風土を重んじて日常を取り戻す地道な復興プロセスが実践されている。復旧に目処が立てば、次は地域振興対策を再開していくとこになるであろう。p.110

 ともあれ、漁協の漁業管理権を剥奪する可能性をも含んだこの特区構想の真意は、知事が「富県宮城の実現」以来進めようとしてきた「産業改革」であり、家族経営の漁業からの脱皮を図らせようとする、大規模経営化ではないであろうか。岩手県とは逆の「「なりわい」からの《脱却》」に他ならない。p.113

 東日本大震災復興構想会議では閣議決定段階で「創造的復興」が議論されたが、一方で「復興への提言」では「絆」や「つなぐ」、そして「コミュニティ」という連帯的なイメージをはらんだ内容が前段でかなり意識された。「創造的復興」と「連帯」は必ずしも相反するわけではないが、もしこの創造的復興が上からの改革的復興であるなら、これは過去を破壊して新たなものを創造するというイメージを与えかねない。そしてその理念のもと、開発行為を推進しようという動きは、震災後かなりあった。
 水産業の復興方針における「沿岸漁業・漁村」については、まさにコミュニティの重要性が説かれた。だが一方で、漁業者の結合体で運営されてきた漁業権制度に特区制度がかけられるという方針が打ち出されたのである。復興方針の文面にあるその落差は、対照的であった岩手県宮城県の水産復興の方針の相違でもあった。
 その相違は両県の復興会議の委員構成にも表れた。復興主体を委員にした岩手県の復興方針が「現場の理論」なら、有識者で委員を固めた宮城県の復興方針は「机上の理論」であり、県境をはさんで「現場の理論」と「机上の理論」が対峙しているように見えてしかたがない。p.123-4

 宮城県岩手県の対照的な復興方針。地元の漁協と基礎自治体主体に行い、復興構想も地元の人々を主体に練られた岩手県。漁協の合併が進み、県主体で進められ、復興構想を東京の有識者を呼んで構想された宮城県。現時点では、岩手県のほうが事業の再開も含め、一歩先んじている様子。ただ、将来どうなるかは分からないからなあ。50年後くらいに「岩手県の保守性が云々」とか言われる可能性もあるわけで。

 第一に、漁港は集約化できても、漁場は集約化できないのだから漁業の効率化は図れず、むしろ非効率になることである。漁港は漁場と集落の一体的関係の下に存在しており、集落に住む漁業者の漁場へのアクセスを効率化するものである。また漁業者は、前浜にある養殖漁場や磯場の漁場を見ながら暮らしており、日頃から地域での清掃活動や植林活動を行いながら漁場保全を図っている。漁場と漁村が近いことは密漁監視にも役立つ。漁港の役割は多面的に捉えなければならない。
 第二に、漁村集落の立地条件や漁業者の活力に対する認識不足である。漁村のなかでも、条件不利地とされている集落、例えば半島の先にある集落ほど、漁業者の活力は高い。条件不利地は、市場条件に恵まれない地域ではあるが、漁場条件が恵まれているケースが多いからである。内湾の漁場は、埋立て・浚渫や工場立地などで漁場環境が悪化しているケースが多く、一方、外海に面する地域は、潮通りのよい優良漁場が多い。それゆえ、養殖ワカメなどは、外海に面している漁場ほど生産力が高く、品質の良い製品が生産されている。また、そのような地域は漁業以外の就業は難しいことから、漁業振興にも熱心である。津波による打撃を受けながら、「協同の力」で早々と復興に着手した岩手県宮古市の重茂漁協は、まさに重茂半島の外海側に立地する条件不利地であった。p.129

 漁港集約化の問題点。リアス式海岸だとこの傾向は強いわな。逆に宮城湾なんかは、集約化が可能なようにも見えるが。あとは、外海のほうが漁場として優良で、漁民も熱心とか。

 宮城県気仙沼地区では、漁港近辺にある鹿折畜、南気仙沼地区、赤沼地区には水産加工場が軒を連ねていたが、押し寄せた津波によりほとんどが損壊した。この地区では二〇一二年六月までに、水産物卸売市場の能力が震災前の五〇パーセントに回復したが、地域内の凍結能力は震災前の三七パーセント、冷蔵能力は三二パーセントとあまり復旧していない。水産流通加工業者二八〇社中業務再開したのは八〇社である。被災した工場で普及を終えたのは三割にも満たないと言われている。区画整理、土地整備、都市計画などがなかなか定まらなかったこともあり、岩手県内に工場を有していた企業が岩手県内の工場を拡充させて、業務を再開するというケースも見受けられた。p.157-8

 宮城県では建築基準法八十四条に基づく建築制限を、二〇一一年十一月十日まで、気仙沼や女川町などの市街地にかけた。気仙沼では水産加工場が立ち並んでいた地区も建築制限区域であった。復旧の遅延はさまざまな要因がからんでいるが、建築制限が与えた影響は大きい。建築基準法八十四条では、県が強制的に建築制限をかける期間は最大で八か月に限られている。その間に土地区画整理の計画がしっかりとしていれば、それ以後は確実に建築が可能になる。だが、気仙沼地区の水産加工場の再開状況を見ると、復旧・復興が進んだとは言えない。
 他方、岩手県では、市町村に建築基準法三十九条に基づいて「災害危険区域」を条例で設定するように働きかけ、建築制限については市町村の自主性に任せたが、条例制定には至らなかった。ただし土地区画整理事業がどうなるか分からず、水産加工業者は戸惑いを隠せなかった。加工場と接続する道路に嵩上げの高さを合わす必要があったため、地盤沈下した水産加工場の用地をどれだけ嵩上げすべきか、判断できないからである。
 結局、多くの水産加工業者は、用地が窪地にならないよう、高めに嵩上げすることで対応した。岩手県では、漁港用地の「占有許可」の停止により復旧の目処がなかなかつかなかった地区もあるが、建築基準法土地区画整理法の影響はほとんど受けなかった。p.160-1

 少なくとも短期的には、土地区画整理事業は復旧に有害なのかもな。災害でただでさえ混乱しているときに、土地の権利なんかの利害調整をやるのは難しいよなあ。早いほうが良いと。

 ブリ、カンパチ、そしてクロマグロなどの養殖業では、冷凍サバなどの生餌が必要とされてきた。養殖業者は太平洋北区のサバ類を仕入れると、販売先からクレームが出て、取引が停止されるという。近年ではトレーサビリティが導入されているため、餌料の記録が残る。たとえ震災前からあった在庫であっても、被災地からは餌料用サバ類は買わないという姿勢である。p.164

 放射能汚染の風評被害。トレーサビリティが販売を妨げていると。とはいってもな。

 この状況をマクロ的に判断すると、細々と漁業・養殖業を続けてきた漁業者が毎年大量に廃業してきたことにより、残った漁業者が使える一人あたりの漁場は徐々に広がってきたと言える。確かに、漁業者数が減少しているにもかかわらず、漁業・養殖業の生産量が減らない、あるいはある魚種が減っても他の魚種が伸びるという現象が生じている。マイワシ、マサバ、スケソウダラなどの大量生産資源の大変動を除けば、日本の総量は大きく変化していない。高度経済成長期から見ると、漁業者一人あたりの生産性はずいぶん上昇したのである。すなわち専業漁家のような中核的な漁業者層が、撤退する高齢者や兼業漁業者の漁場を吸収してきたと言える。東日本大震災はこのような構造再編が振興している最中で起こったのである。p.251

 水産加工業では震災後、事業再開を断念したのは零細業者と大企業であった。
 再開を希望していた水産加工業者のなかには、財政支援の交付が決定していたにもかかわらず、事業再開が決まらない事業者も存在する。金融機関から再開のための資金が調達できなかったからである。与信審査は通常と変わらず、新規の借入には債権区分が重視されるという。震災前に経営不振に陥っていた業者は金融機関から見放され、経営再建の目処がたたず、事業再開を断念しているのである。
 一方、大企業は、震災前から不採算事業であった部門についてはすぐに事業撤退と判断した。事業撤退後は、被災地以外の地域にある工場に従業員とその機能を移転している。p.253

 漁業の構造変化。