渡辺尚志『海に生きた百姓たち:海村の江戸時代』

海に生きた百姓たち 海村の江戸時代

海に生きた百姓たち 海村の江戸時代

 文字通り、漁業など海を生業の場として生きた人々を描いた本。ラスト近くで、ちょっと失速して、読み終わるまでに間が空いてしまった。図書館の本がなかなか片付かないわけだよなあ…


 基本的には漁業資源の配分を巡る紛争がメイン。河川や湖沼、近海など、資源量が限られた空間での取り合いになるため、江戸時代から資源配分を巡る紛争が絶えなかったし、文書が重点的に残されてきたのだろう。
 前半三分の一程度を占める第一部は、全国各地の漁業の姿を紹介する。東北では鮭の資源を守るために産卵場の保護や漁獲時間の制限。八郎潟で大型魚を獲る漁村と小魚を捕る近隣集落の対立。天草と長崎の間の漁場を巡る対立。岡山における干拓・塩田造成と漁業者の駆け引き。隠岐の輸出用アワビの増産をめぐる幕府と地元漁民のせめぎ合い。千葉県富津市金谷の漁業集落と農業集落の海藻採取を巡る争い。九十九里浜イワシ漁。琵琶湖のヨシ採取が環境意地に果たした役割。さまざまな形の漁業が存在した。
 そういえば、天草や長崎県南部のイワシ漁、漁獲されたイワシはどのように利用されたのだろうか。やはり、干鰯に加工して肥料にしたのか、食料として販売されたのか。


 後半は、著名な「豆州内浦漁民史料」を利用して、沼津市内浦の立網漁の歴史を明らかにする。「網元」が「網子」を指揮して、特定の漁場に定置網のように網を仕掛けて、回遊してくるマグロやカツオを漁獲。鮮魚は江戸などへ。塩蔵などの加工品が沼津周辺や山梨県まで搬出されていた。純然たる市場志向の漁業ながら、江戸とほどよい距離にあったためか、よそから資金的に支配されてしまうことも免れたというのが興味深い。
 つーか、この地域、海村研究の基本的なフィールドというイメージしかなかったが、ラブライブの聖地なんだ。網元とラブライブの登場人物を結びつけるような記事が存在したりするわけだ。


 第一章は「豆州内浦漁民史料」発見の経緯。第二章は、全体の解説。三章は17世紀の、四章は18世紀の、五章は19世紀の紛争を紹介し、終章は近代における津元支配の終焉を描く。


 津元の元で、網子6人、船、網などを持って構成される網組が基本。網で回遊してくる魚群を囲い込んで、捕獲、売却する。網組では、年中行事が行われ、結束の基礎となったようだ。
 また、幕府から課される重い負担。漁業権を確保する浮役、漁獲物の売却益から経費を控除し、そのうち三分の一を納入させる分一役など。また、獲れた魚は、諸経費として人件費や機材修繕費が控除され、のこった純益から網元と網子で分配する。
 また、内浦の諸村で、漁業への依存度には濃淡があり、加工や商業の要素が強い三津、漁業への依存度が高い長浜や重寺、農業や林業への依存度が高い他の村々など多様性があった。また、不漁期には、農林業への依存度の高まりも見られた。


 津元は、漁場の石などを取り除いた開発の由緒を持って、特権を主張、維持していた。しかし、このような特権や村財政の透明性・負担の公平性などの観点から、繰り返し紛争が起き、幕府の裁判を仰ぐことも度々あった。
 また、18世紀には、外部の商人が税金の請負をしようと進出してくるが、網元が結束して対抗、自力での請負を可能とする闘争。
 さらに、19世紀に入ると、網子以外の百姓の新規経営の試みや新規漁場の開発など、津元支配は揺らいでいき、近代に入ると網元の廃止へと進む。「由緒」で特権を維持していた津元が、近代にその根拠を失ってしまったのは確かだよなあ。
 あと、延々と紛争の歴史が続くけど、これ、津元が自分たちの権利の証明として、選択的に紛争関連の文書を保存したんだろうなあ。


 第一章で紹介される19世紀に内浦に宿泊した幕臣木村喜繁の記述がおもしろい。
 漁獲物の内臓は、さまざまな利害関係者に分配され、桶に貯蔵され、肥料として売却された。その匂いにげんなりして、魚を食べたがらなかった喜繁がちょっとおもしろい。
 あとは、魚のにおいに慣れなくて、持参した漬物などを食べていた。同行者は、新鮮なマグロが旨いといって、喜んで食べていたそうだから、これ、喜繁さんが偏食だったんじゃなかろうかw
 とは言え、輸送に時間がかかる江戸時代において、食料品って、どんな匂いがしていたんだろうなあ。内浦で漁獲した魚は、伊豆半島を陸路で横断し、東岸から船で江戸まで運ばれたそうだが、4日もかかると、夏場なんか、ちょっとやばそうな感じがするw