飛田範夫『江戸の庭園:将軍から庶民まで』

江戸の庭園?将軍から庶民まで (学術選書)

江戸の庭園?将軍から庶民まで (学術選書)

 江戸の都市内に存在した庭園を各種カテゴリーごとに紹介している。少々平板なきらいがあるが、どのような庭園が存在したかの見取り図を得ることができる。東京と大阪の緑地の差異の淵源を明らかにしようとしたそうだが、そこについてはちょっとうまくいっているとは言い難いような。
 第一章は庭園を維持管理した江戸の植木屋について。いくつもの植木屋集団がいると同時に、大寺院の門前など繁華な場所で植木の販売が行われていた状況を指摘する。高田の植木屋集団に関しては、「貧農の副業」としているが、むしろ園芸で十分生計が立つからこそ土地を手放したのではないかと思う。名主も所有している土地が狭小というのは、それ以上の規模の園芸を行い得ない、経営規模の限界だったのではないだろうか。
 第二章、第三章は江戸城内と浜御殿の将軍の庭園。公的な建物が立ち並ぶ中の庭園、火除け地として吹上の庭園。別荘である今の浜離宮など。本丸御殿などの公的な建物が将軍の意のままにならなかったという指摘は興味深い。
 第四章、第五章は大名庭園。主に水源を中心にまとめている。潮入りの庭、河川の水を利用した庭、玉川上水などの水道を利用した庭、湧水を利用した庭。柳沢吉保の孫信鴻の時代の六義園は湧水を水源としていたが、季節によって湧水量が変わり冬には池の水が枯れてしまって苦労していたという。
 第六章は旗本や御家人の屋敷の庭園について。江戸図屏風や旗本上ヶ屋敷図といった図面、林大学頭の屋敷の庭園など。また、御家人層になると、庭園というよりは菜園といった趣になり、その中には生計の足しのために花卉を栽培し、行楽地として有名になるような場所もある。大久保百人町のつつじは割と有名だが、下谷御徒町では変化朝顔の栽培が行われていたとか。足軽クラスって、もともと武士未満なところがあるが、そこから別な文化が生まれているのが興味深い。あと、このあたりから閉鎖的な屋敷の庭園ではなく、公開されて行楽の場となる庭園が多く出てくるようになる。
 第七章は寺社の庭園。将軍の御成りに備えた寛永寺増上寺の庭園や浅草寺・東海寺の屋敷の中タイプの庭が一方にある。で、逆に公開して人を集め、参詣者を増やすための庭も紹介される。日暮里の寺院の庭園群や神社の庭など。
 第八章は農民・町人の庭園。名主や富裕な町人は別荘を構え、そこに庭園を作っている。また、「百花園」のような公開の庭園、行楽の場としての庭園も多数存在する。最初は名木があるとか、実をとるための梅林が、人が集まることによって、料理や茶を提供する名所となっていく状況。あと、こういう行楽地としての庭園が、先に読んだ『大名庭園』で指摘された「視覚中心の庭園観」にどのように影響したかも、ちょっと考えて見る必要があるように思う。
 第九章はまとめの章。うーん。本題とはあまり関係ないが、都市のスプロール的拡大って、江戸時代から問題なってたのな。


 以下、メモ:

 江戸初期には将軍は大名屋敷をしばしば訪れている。大名邸宅への「御成り」を、幕府の公式行事として実施したのが二代将軍秀忠だった。外様大名の屋敷へは選んで訪れたから、大名たちの名誉心を満足させるとともに、忠誠心を喚起することにもなり、将軍の権威が高まるという政治的効果があった(山本博文江戸城の宮廷政治』)。p.229-230

 この「権威」というのが捉えがたい代物でな…

 天和三年(一六八三)に類焼し、元禄十六年(一七〇三)には地震で建物が大破している。延享三年(一七四六)と天明六年(一七八六)に再び焼失し、さらに安政二年(一八五五)に地震で被災し、文久二年(一八六二)にも類焼している。二一〇年ほどの間にいくども被災していて、記録に残っているだけでも四回建て替えている。p.235

 江戸時代だと1703年と1855年の大規模な地震が発生していると。割と頻繁に起きているな。

 武家屋敷や寺院の建設のために、田畑を取り上げられた八〇人あまりの農民が、指定された駒込片町へ移転を強要され商売をさせられている。農地を奪い取られた農民たちが、幕府に対して代替地を要求しても願いは聞き届けられず、多くは零細な商工業者にならざるをえなかった(前掲『豊島区史』)。
 農地を大名屋敷にしたことから、以前に住んでいた百姓を屋敷内に住まわせて、庭園管理をさせている例がある(『渋谷区史』五)。p.241-2

 ひでえ…


文献:
渡辺好孝『江戸の変わり咲き朝顔平凡社1996asin:4582515053 市立図書館に所蔵しているな
飛田範夫「江戸の植木屋と花屋」『長岡造形大学研究紀要」5 2008→http://ci.nii.ac.jp/naid/110006882074