圭室文雄『江戸時代の遊行聖』

江戸時代の遊行聖 (歴史文化ライブラリー)

江戸時代の遊行聖 (歴史文化ライブラリー)

 久しぶりにノンフィクションを読了。今月二冊目か。国家神道関係の本が気分が乗らなくて読めないので、転進。
 江戸時代に全国を回ってお札を配ることで隆盛を極めた時宗のナンバー2遊行聖の活動を、時宗の本山遊行寺や大名家に残る文書などから明らかにしている。将軍からは伝馬徴発の朱印状を得、天皇からは「他阿上人」の称号を得た、権威が時宗の隆盛の背景にあったこと。また、寺檀制度の中で、高位の僧が自ら民衆のもとに赴いてくることが、熱狂的に受け入れられた背景にあること。逆に、幕藩体制に強く適応した結果、明治維新以降の変化に適応できず、時宗は衰退することになった。
 全体としては遊行聖の選出、遊行聖に選出されるまでのライフコース、廻国の経路などの全体を扱った章、江戸の将軍や京都の天皇への謁見に至る交渉、廻国の際に経路の様々な大名から受ける接待、熊野参詣、化益・賦算(民衆へのお札の手渡し)を中心とする宗教活動が紹介される。
 廻国の際に、宿舎となる寺などの整備や食料の給付など、途次の大名の支援を受けていること。江戸幕府から接待を縮小する法度が出て、接待が縮小されていることから、各大名家にとって、遊行聖の接待が負担になっていたこと。遊行聖の廻国が、大名だけでなく、在地の社会にとって負担になっていた状況などが興味深い。逆に、大名による支援がなければ廻国ができなかったことが、明治維新後の時宗の衰退に影響しているんだろうな。
 あとは、札を配るだけでなく、虫追いや病気平癒、慰霊のための過去帳記載など、様々な宗教活動を行っていて、それから収益を得ていたこと。なんというか、牧歌的な信仰の世界というか、お金がかかるんだなというか。


 以下、メモ:

 「転吉利支丹寺請証文」はキリシタン一名につき四通作成した。当時の史料が現存している小倉藩(「松井家文書」熊本大学図書館所蔵)の例をみると、その内容の第一は本人の転び証文(改宗した証文)、第二は村民の仲間が保証人となり、本人が転んだことを誓約した証文、第三は村役人である庄屋と手永の惣庄屋連名の身分保証書、第四は寺の住職がこのキリシタンが転んで自分の寺の檀家になったことを証明する証文、などである。かなり煩瑣な手続きではあるが、小倉藩ではこれほどまでに徹底して改宗を迫っていることがわかる。以上の四通の証文の宛先は、いずれも小倉藩家老である。p.7

 細川藩に残る転びキリシタンの手続き。手間がかかるんだな。大分は当時はキリシタンが多かったのだろうな。

 ここでは仏教教団側にとってもさまざまな転機が訪れたといっていいと思う。この段階で中世後期以来、村々には僧侶が定住していない持仏堂、阿弥陀堂地蔵堂、不動堂などの堂宇と呼ばれるものが数多くあったので、一つはここに僧を定住させ寺に昇格させていくことが考えられた。とりわけ近隣の有力寺院が抱えていた弟子の僧侶を派遣して定住させるか、あるいは在地に住んでいる篤信者で阿弥号や聖号を持っている半僧半俗の者を堂宇に住まわせ、村の人々が講中を作り経済的負担をして、堂宇を寺に昇格させていくケースも多くみられた。つまり村民たちにとっては寺請証文を作成するための寺が急ぎ必要になった。それゆえ村側の要求として寺を作っていくことにもなった。現存する寺院の約七〇%は寺請証文が日本人全員に義務づけられた一六四〇年ごろから一六七〇年ごろまでに開創されたといっても過言ではない。p.13

 寺請制度が寺院建設に与えた影響。寺請証文を作るために寺が必要になったってのも、なんか本末転倒感がすごいな。

 遊行上人は将軍の朱印を得るとともに天皇から勅賜の「他阿上人号」を受け、将軍と天皇の権威を得た宗教者として、かつ生き仏として、また民衆の宗教的要求を満たすカリスマとして評価されたのである。しかも他宗派の大僧正と異なり、自ら民衆に積極的に近づき布教する姿勢に、民衆は自分の所属する檀那寺の宗派とは別に、遊行上人に現当(現在と未来)二世安穏を求めたといえる。p.113

 遊行上人の宗教的な力の背景。