天野文雄『能に憑かれた権力者:秀吉能楽愛好記』

能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記 (講談社選書メチエ)

能に憑かれた権力者―秀吉能楽愛好記 (講談社選書メチエ)

 豊臣秀吉の能への打ち込みを描いた本。秀吉は独特な能との付き合い方をしている。57歳に至るまでは、どちらかというと薄い付き合い。儀礼や饗応の時に役者を呼ぶ程度。これが、文禄の朝鮮出兵時、名護屋城で能の練習を始め、それから一気に熱中。10か月後には、禁裏で能を主催、演じている。この時は、家康、前田利家などの武将と、様々な能役者が共演している。その後の、各地での能を演じたり、自分の事績に基づく「豊公能」を新作させたり、能の座に対する扶持の支給といった保護政策など。そして、秀吉の死後、能の保護者が豊臣家から徳川家に移っていく状況。この時代の「能」が、現在と比べるとカジュアルなものであったというのも興味深い。あとは、素人というかパトロンの意見が、役者の演技に採り入れられていく室町から戦国の能のあり方とか。
 しかし、文禄二年の禁中能の時の秀吉って、結局、それなりだったのか、下手だったのか。この時代の日記にしろ、手紙にしろ、他の人の目に触れることを意識していたはずだから、あんまり赤裸々には書かなかったんじゃないかと思うが。


 以下、メモ:

 秀吉が生きた安土桃山時代は能の歴史の上で大きな転換期にあたっている。それは能が現代劇であった時代を終えて古典劇としての道を歩み始めた時代であり、その意味で現代の能の源流のような位置にある時代でもある。装束が豪華なものになり、演義のテンポがおそくなって一曲の上演時間が世阿弥の時代よりも二、三割長くなり、能舞台も現在の形に近づきつつある時代であった。秀吉が能に夢中になったのはそうした時代なのである。つまり、秀吉の能楽愛好について語ることは、とりもなおさず安土桃山時代の能を語るということにほかならないのである。じっさい、本書の各章で秀吉の能楽愛好の事例に接した読者は、そこにおのずと現代とはことなる安土桃山時代の能の姿を感じ取るにちがいない。それは、教養ではなく純粋に娯楽として楽しまれている能であったり、現代のようなさまざまの約束事がまだ少ない自由闊達な能であったり、素人における能楽愛好の広がりであったりするであろう。そうした安土桃山時代の能の姿を、秀吉の愛好をとおして望見して、できるならば、その時代を七百年におよぶ能楽史のうえに位置づけてみたい、というのが本書のもうひとつのもくろみである。いささか欲張りすぎかもしれないが、本論に入る前に、秀吉にいたるまでの前史として、武将の能楽愛好の歴史について述べた序章を置いたのもそのためである。p.8

 今とは違う能の姿。当初はずいぶん早いテンポだったんだな。

 以上を要するに、秀吉の四座にたいする配当米の支給は、その後、能が今日まで存続するための有力な基盤ともなる一方で、それまでに存続していた群小の座の解体を促し、能界を大和猿楽四座のもとに一元化するという結果をももたらしたわけである。秀吉による四座保護はそうした二つの意義をもっている。この二つとも、おそらく秀吉の意図したところではなかったと思われるが、いずれにせよ、秀吉の四座保護は、多くの座が畿内各地に本拠をかまえてその技を競うという、鎌倉時代以来の能の上演形態に終止符を打つことになった。その結果、つぎに訪れたのは、大和猿楽の系譜につらなる役者が、座とは別に多くの流儀や家を派生させて、既成の作品をくりかえし演じて洗練してゆく古典劇の時代であった。秀吉の四座保護は、そうした能楽史における大きな転換のきっかけになったのである。p.231

秀吉の猿楽配当米の意義。