繁田信一『下級貴族たちの王朝時代:『新猿楽記』に見るさまざまな生き方』

 『殴り合う貴族たち』を出した繁田氏の本。下級貴族を扱った本って、意外とないので、手に取ってみた。
 副題にあるとおり、11世紀前半に藤原明衡が書いた職業尽し的著作『新猿楽記』に出てくる職業を紹介する本。『新猿楽記』に出てくる職業は、単純に職業を紹介するものではなく、当時の下級貴族や上層平民が就いていた職業を示している。
 本書の主人公、右衛門尉の婿たち、それぞれの職業での、天下無双レベルの第一人者という設定が、中二病的でいいなあ。博打打ち、武者、田堵、巫女、金属細工、学者、相撲取り、馬借・車借、大工の棟梁、遊女といった職業が紹介される。経済力があれば、献金で官位を得ることができるし、技術や学識も、日本一レベルだと朝廷に下級貴族として迎えられる。
 平安中期以降になると、正六位上が最下級ランクで、それ以下の位階は授与されなくなる。また、それらの位階の人間がになってた官職も、正六位上の位階の人間が受けるものになったというのが興味深い。たぶん、それらの官職は有名無実化していたんだろうなあ。
 そして、下級貴族層と上流の庶民との間は、官職売買の制度によって、それほど大きなものではなかったことが紹介される。ここいらの官職売買については、本郷恵子『中世人の経済感覚』あたりも扱っていたな。
 実際に、社会を動かしていたのは、このあたりの下級貴族・庶民エリート層なんだよなあ。


 第一章は、博打打ち。博打打ちも、下級貴族であるという意外性のある話を最初に持ってきたのが、本としての勝利だなあ。ここで、一気に興味を引かれる。当人は、官位を持っていたか定かではないが、父親は同じ博打打ちで、筑前筑後の掾の官職を得ていた可能性が高いと。
 バックギャモンのような「双六」やその簡易化である丁半博打が行われた。博打は法的には禁止されていたが、貴族社会に蔓延していた。というか、後一条天皇藤原道長のような、国家の最上層に位置する人間が熱中していて、道長に至っては、熱中しまくって、上半身裸でやっていたとか。なんというか、「雅」とかとずいぶん縁遠い話だな。まあ、宴会でしこたま酔っ払うとか、そういう世界だったようだし。
 実際、博打で生計を立てていた下級貴族がいたらしいことが、平安時代の文書から明らかになるそうな。博打で負けた借金のかたに、預かって調教していた馬を持って行かれた訴えが、「三条家本北山抄裏文書」という紙背文書に残っているという。


 第二章は、次女の婿の「武者」。天下第一の武者と称される人物。弓矢を巧みに扱えることが、第一なのだな。あと、近接戦闘の技術に、指揮や戦術の知識と能力を持つ。「勲藤次」という通称から、著者は、藤原秀郷流の人物を考えているのではないかという。
 このような武者は、所領ではなく、各地に赴く受領に雇われて護衛を行う傭兵稼業で、生計を立てていたという。11世紀にもなると、受領国司として現地に赴いた中級貴族と現地の有力者との、税や権益を巡る抗争が起こり、襲撃されることも度々あった。そのような自体に備えて、練達の武士が必要とされ、そのような人材を斡旋する「武家の棟梁」が存在した。
 しかし、平安時代って治安悪いのだなあ。参議が大和の長谷寺に参詣に行くのに、護衛が必要であった。あるいは、園城寺の僧が、京都からの帰路に、護衛が一人だと心細く思ったとか。


 第三章は、田堵、あるいは名主と呼ばれる人々。荘園や国衙領の一定の領域の耕作を借り、税金や使用料を納める代わりに、農場経営で利益を出す。大規模農場経営者。農具を揃え、水路を整備し、圃場を造成する、かなりの設備投資が必要。さらに、労働力を集め、役人相手に接待や納税の費用がかかる、さらに不作のときにも税金納入を求められる、リスクの大きな事業であった。とはいえ、数町レベルの農地を経営する田堵は、相当な収入が見込めた。
 で、その経済力で、位階や官職を「買う」ことができた。朝廷の財政難で、官職売買が制度化されていた。皇族や上級貴族の給与の一部を、下級官職の斡旋権を与えるという形式で付与する「給」、あるいは、朝廷や寺社の施設の建設・再建など、朝廷の支出を肩代わりする「成功」などによって、地方官の介以下の官職に任命され得た。


 第四章は、四女が巫女として活動していたお話。巫女の活動分野として、占い、神楽、召霊などがあるという。同時代の文献から、神を下ろしての神託、呪術、呪詛などを行う姿が見られる。また、摂関家や宮廷に出入りできるクラスの巫女は、中下級の貴族の出身でったという。高僧が、上級階層の出身出会ったというのと同じなのかな。


 第五章は、金属関係の職人。先の四女の夫は、鍛冶、鋳物師、金細工、銀細工何でもござれの万能職人という設定。さすがに盛りすぎ感があるなあw
 それぞれ、かなり違う技術だから、全部一流は、人間の範囲を超えつつある感が。
 あとは、それぞれの官司の下級職員である「史生」という肩書きを帯びた下級貴族が多かったとか、その、下級官吏が実際には受領国司をも上回る富豪である事例もあったこと。
 また、この人物が平安京の「保長」であったという設定から、保長という役職の説明。平安京の「町」を四つ束ねた「保」という領域の治安維持などを任された役職で、おそらくは上層の庶民が任命されていた。そして、富豪クラスの庶民は、官職を購入して、下級貴族の肩書きを得ていた。「九条家延喜式裏文書」に残っていた「左京保刀祢請文」という死霊の保刀祢の名前や肩書きからは、半分程度が史生などの下級官職を帯びる下級貴族であったが、そのようにして下級貴族層になったのだろうと指摘される。


 第六章は、五女の婿。紀伝・明法・明経・算道何でもござれの万能学者という設定。菅原氏というのが、それっぽい。20-30年、学問に励み続ける「役職」が学生。かなり歳をいってから、役職に就くらしい。官吏登用試験「対策」に合格すると、専門職には就けるが、要職に昇進するのは無理だった。その点で、対策は科挙の矮小化したものであった。
 とはいえ、優秀な学者は、他の下級貴族と比べると、かなりの出世が期待できた。
 一方で、突出して優秀な学者は、他から妬まれ、呪殺の対象になるなどストレスが大きかった。
 著者の藤原明衡がそうだったからか、紀伝道が一番に扱われるという指摘も興味深い。


 第七章は、六女の婿の相撲取り。相撲人とは、七月末に行われる相撲節会に奉仕する人々で、代替は地方豪族の格闘に強い人間が、節会に招集された。多くの従者を従え、領地を持ち、騎射などに堪能な武人でもあった。
 また、上位の相撲人は、称号とともに、広大な領地を与えられた、有力領主であった。
 土俵がない当時の相撲は、とにかく地面に打ち倒す必要があり、かなり危険な格闘技であったという。


 第八章は、七番目の娘の婿。美食家の七女は、とにかくお金持ちと結婚しようと言うことで、有力な運送業者と結婚し、美食三昧を尽くした。傲慢だけど、働き者の夫。だが、当時の貴族的価値観では、やはり自分で肉体労働を行う人物は、低く見られたようだ。
 琵琶湖と京都を結ぶ陸路や淀川水運の端末淀・山崎から輸送を行う人々。大量の物資を輸送する彼らは食いっぱぐれることのない職業であり、琵琶湖・京都間の馬借では輸送量の一割、淀川からの車借では7.5パーセントの運賃だが輸送量が大きい。このため、かなりの収入を得る、上層の庶民は相当の経済力を持つ存在であった。
 何で馬車が日本に定着しなかったかも興味深いなあ。とはいえ、牛車があれば、馬車の必要なさそうな気もする。道路整備のコストも大きいというか、峠道がある場所が多くて、そもそも、車両より駄馬のほうが使い勝手が良かったのかね。


 第九章は、八女の婿の「大工」。建築職人の中でも、木工寮に所属する工匠の筆頭が「大工」であった。建築技術者の筆頭は、貴族に属する存在であった。有力寺社の建造などで、中級貴族まで昇進することが可能であった。平安時代中期以降は、「大工」の意味が拡張して、親方格の工匠がそのように呼ばれるようになっていた。
 彼らは、朝廷の仕事以外にも、仕事を受けることが可能であった。あるいは、大工・長・連といった序列があった。また、彼ら工匠の日当は、一般の肉体労働者に比べると、かなり大きなものであったことが、当時の史料から知られる。


 ラスト、エピローグは、16女の職業の話。
 彼女は、遊女であった。史実でも、中下級貴族層の娘が、遊女となっていた事例は存在するという。彼女たちは春をひさぐだけでなく、歌や踊りも重要な売り物だった、と。

 例えば、藤原道長・藤原頼道と同じ時代を生きた藤原実資という上級貴族の日記である『小右記』は、長和三年(一〇一四)の十二月五日、藤原頼行という下級貴族と藤原能信という上級庶民の従者の一人とが口論の末に矢を射かけ合って能信の従者が射殺されたという出来事を、「合戦」という言葉を使って記録しているにもかかわらず、長和五年の五月二十五日、藤原能信の幾人かの従者たちと観峯という僧侶の幾人かの弟子たちとが弓矢を使わない集団乱闘に及んで観峯の弟子の一人が刃物で刺殺されたという出来事については、「合戦」という言葉を使わずに記録している。王朝貴族たちは、一人対一人の小さな戦闘であっても弓矢が使用された戦闘は「合戦」と呼んだものの、数人対数人の少し大きな戦闘であっても弓矢が使用されない戦闘は「合戦」とは呼ばなかったのである。また、この判断には、戦闘の結果としての死者の有無は全く関係なかったものと思われる。p.43-4

 個人のケンカでも弓矢が使用された場合は合戦で、集団乱闘でも弓矢が使用されない場合は単なる乱闘扱いなのか。弓矢の象徴性みたいなのがおもしろい。