瀬畑源『公文書をつかう:公文書管理制度と歴史研究』

公文書をつかう: 公文書管理制度と歴史研究

公文書をつかう: 公文書管理制度と歴史研究

 思った以上に時間がかかってしまったな。結局、一週間近く格闘していた結果になるのか。やはり法律が関係すると、読むのに時間がかかる。法律の文章って、ここまで解説してもらわないと、何を言っていて、重要なことは何かが分からないのだな。
 全体としては、「公文書管理法」の制定に伴って、公文書の管理の仕方や利用がどう変わるかといった観点から、公文書管理の歴史、公文書管理法の解説、この法律で積み残された課題に分けて、論じられる。
 しかし、国立公文書館の設立や情報公開法の制定の過程を見ると、必要性が提起されるようになってから、なんらかの法律が制定されるまでに20年もかかるんだな。公文書管理法はわりあいスピーディに実現できた方だといえるが、それでも10年かかっているという。


 第一章は、明治維新から公文書管理法の制定に至る公文書の管理の歴史。
 明治初期、太政官時代には幕藩体制時代の文書が収集され、記録が盛んに編纂された。また、これらの記録は実務の情報源として、よく利用されたという。この状況は、内閣制度の創設とともに、大きく変化する。法典類の整備とともに、幕藩体制時代の記録は実用的な価値を失い、文書の保管状況は極端に悪化していくことになる。行政の独立性が重視された結果、説明責任のない状況で、公文書は実務の都合で処分され、残された文書も歴史的重要性よりも実務の必要に応じて残された。さらに、戦中戦後と行政の「効率化」をめざした運動が行われ、その一環として公文書の「整理」が行われたこと。戦災と終戦直後の公文書の焼却によって、内閣制度の設立から戦後もかなりの期間、文書の残存状況は悪いという。一方で、政治家や官僚が、公文書を自分のものとして持ち帰った結果、私文書中に政策過程が分かる公文書が混じっていることも多いという。
 戦後、制度の大きな変化にもかかわらず、官僚制度そのものは連続性が強かったため公文書を扱う意識はほとんど変わらなかった。また、行政の効率化、能率化のもと、公文書の廃棄が推進された。一方、歴史学界を中心に公文書の保存を担う公文書館の設立を求める声が起こり、1958年に日本歴史学協会は「国立公文書館建設の要望書」を提出している。紆余曲折の末1971年に開館している。また、1987年に公文書館法が成立している。
 第三節は80年代以降。情報公開法の制定に至る紆余曲折とその直前の文書の廃棄。国立公文書館独立行政法人化による文書移管の減少と独法化を拒否する理論の欠如の問題。公文書管理法制定の動きなど。しかし、公文書管理法の制定は、ポスト小泉時代自民党政権の最大の成果だと思うね。


 第二章は公文書管理法の内容を、施行令や情報公開法などの関連法規や歴史的経緯などを関連させながら解説している。ここはまとめきれないな。結局、ここに一番時間がかかったように思うし。
 こうして見ると、公文書管理法はずいぶん行き届いた、実効性を重視した法律なのだなと思う。なるべく、官僚による恣意的な文書の処分や公開の拒否を難しくするように、条文が考慮されている。と同時に、それが骨抜きにされないように、公文書管理委員会の人事なんかは注視していく必要がありそうだ。
 大まかに言えば、行政機関と独立行政法人の文書の管理、国立公文書館などの公文書館の制度、公文書管理委員会の規程などが中心になっている。文書の公開をめぐる異議申し立てなんかが、公文書管理委員会の審議を通じて行われるあたりは興味深い。また、プライバシー・個人情報に関連する考慮なども。


 第三章は公文書管理法が積み残した問題。
 まずは、司法と立法の文書の管理と公開の問題。どちらも、公開が非常に遅れている印象。特に、立法。本会議の議事録の公開なんかがあるから、公開が進んでいるかと思いきや、まったく逆の状況にあるという。国会こそ、いちばん説明責任が求められるはずなのに、この体たらくという。各委員会や配布資料も、非公開状態だという。あと、首相や閣僚、政治家のもつ資料の問題。私文書と公文書の間にあるような存在だけに、難しい。
 続いては国立公文書館の問題。行政に従属してる結果、司法や立法への権限がない状況や日本の国立公文書館の規模の小ささ。つーか、こういっちゃなんだけど職員数がフィリピンの1/5程度しかないというのは、国辱ものだと思うのだが。
 専門職としてのアーキビスト要請にも問題があるそうだ。現在の所、国の資格としてのアーキビストは存在しない。また、関係者が図書館情報学歴史学文化財保存関係と出身が違っている結果、アーキビスト資格に必要な技能に関する合意もまだできていない状況なのだという。また、国立公文書館の研修などを受けた人も、人事異動でそう長くは留まっていない状況が指摘される。
 最後に、地方公共団体の問題。公文書管理条例が制定されている自治体がまだ少ない状況や公文書館を持たない自治体が多い中で公文書管理法のような制度を構築するのが難しい状況などが指摘される。


 非常に興味深かったが、参考文献なんかを考えると買った方がいいのかね。


 以下、メモ:

 政治家や官僚の個人文書のなかにしばしば重要な公文書が紛れ込んでいることは、政治史研究の世界では半ば常識化している事実である。政治家や官僚による公文書の「私物化」は、明治初期から頻繁に起きていて、日本の政治史研究は、個人文書を調査・分析することを中心にして成り立ってきた。また、戦後の防衛政策を研究している佐道明広は、官僚OBから死蔵した極秘文書を見せてもらったことがあると話しており、その傾向は戦後になっても続いていたようである。このことから考えると、佐藤家で「密約」文書が見つかるということは、ありえない話ではない。p.9-10

 しかも、困ったことに、そういう形で残らないかぎり、大概の文書は処分されてしまっている可能性が高いという…

 伊藤がシュタインから学んだことの中核には「行政府の自律」があった。シュタインは、立法府(議会)での多数による専制や君主専制を批判し、行政府の自律こそが国家建設にとって重要であると主張した。伊藤は、シュタインの議会制度導入消極論には与しなかったが、議会制度を成り立たせるだけの「国民精神」はまだ不十分だと認識していたため、まずは行政府を中心とした国家体制を形成し、漸進的に議会政治を日本に定着させていくというビジョンを持った。そして伊藤は、憲法や議会よりも先に行政府の整備に乗り出したのである。p.21

 これが禍根になったわけだ。まあ、議会が強いから国を誤らないってこともないわけだが… ただ、いまだに影響は残っているよなあ。

 その後も、政党内閣やインナーキャビネット(主要閣僚による政策調整。五相会議など)、企画院や大政翼賛会など、政府の意思決定の一元化が試みられた。しかし、いずれも軍部や政党、官僚などの対立関係を根本的に解決することができなかった。飯尾潤は、日本が敗戦に行き着いた原因として、政治体制が「意思決定中枢を欠くために、指導者がお互いに手詰まり状態に陥り、事態打開のための決断が遅れ、積み重なった既成事実が選択肢を狭めるなかで、対米開戦といった破滅的決定を下し、崩壊へ突き進んだ」と指摘している。大日本帝国政府は、最後まで権力の分散化を解消できずに敗戦を迎え、占領軍によってその改革を迫られることになる。p.25

 確かにねえ。枢軸国の構成国がむしろ、内輪での争いがひどかったような印象はあるよな。ナチスの有力者間の権力闘争が資源の合理的な配分を阻害したり、日本では陸軍と海軍の対立とか民需用の資源を軍隊が奪ったり、ムッソリーニファシスト政権も見かけの独裁だしな。むしろ、アメリカやイギリスが中央集権的な資源配分を可能にした背景ってのは、常々謎に思っている。フランスはフランスで、いろいろとなかでゴタゴタしているうちに崩壊したわけで…

 現在の国立公文書館の所蔵文書を見ると、明治初期の公文書の残り具合はかなりよく、政治過程を跡づけられるようなものも多数残っている。したがって、明治初期の公文書を用いた歴史研究は数多く行われている。しかし、内閣制度創設以後になると、急激に公文書の残存状況が悪化する、編纂事業がおこなわれなくなる一方で、廃棄対象になった文書は、それを受け入れる公文書館が存在しなかったために、自動的に処分されていった。各省内で永久保存されている文書は、あくまでも行政に必要だから残されていた文書であり、歴史的な価値や国民への説明責任を果たすために文書を残すという発想はあまりなかったように思われる。そのため、文書が残っていても、『公文類聚』のようないわゆる最後の「決裁文書」しかない場合が多く、歴史研究者がいちばん知りたい「政策決定過程」の文書は公文書としてはほとんど残っていない。p.29

 宮内庁と外務省で公文書が大量に残ったのは、彼らの仕事にとってその文書が「必要」だったからである。一方、政策決定過程の記録を重視しない内政・経済関係官庁の歴史公文書は、非常に残存状態が悪い。内務省財務省などの公文書管理の歴史を調べた下重直樹によれば、行政機関によっては文書管理の実態がどのようなものだったのかといった歴史を追うことさえも不可能だという。例えば財務省は、関東大震災や庁舎の火災などもあったため、1886年以後から終戦までの文書管理の実態をうかがうに足る資料は見当たらないとのことである。行政にとって必要か否かという基準で文書を残すか廃棄するかが決まっている以上、各省の業務内容によって残存状況は大きく異なったのである。p.32-3

 なんともはや。

 これらの文書焼却や隠匿は、その後におこなわれた極東国際軍事裁判東京裁判)の行方を大きく左右することになった。吉田裕によれば、公文書が大量に失われていたため、検察側は裁判を維持するうえでの証拠を、関係者への尋問記録や証言に頼らざるをえなかった。この過程で日本側は、尋問に積極的に協力することによって、被告の選定や判決の行方に影響を及ぼすことが可能になった。また、裁判の公判廷の場でも、検察・弁護双方とも関係者の証言に大きく依存することになったために裁判の進行が大幅に遅れ、その間に冷戦が激化し、連合国軍の裁判に対する意欲を減退させた。さらにいえば、天皇の免責で一致していた日米双方にとって、公文書ろいう証拠が存在しないことは、天皇の「無罪」の「証拠」を関係者の「証言」によって作り上げることが可能になるため、かえって都合がいい面もあったのである。まさに、公文書が存在しなかったために、日米双方の思惑によって、天皇の免責と陸軍への戦争責任の押し付けという結果が作り上げられていったのである。p.39-40

 公文書の焼却はそれだけ効果があったと。本当に最悪だ。

 ではなぜ、国では情報公開法がなかなか作られなかったのだろうか。その理由の一つとして、いわゆる「55年体制」下で自民党が長期政権を敷いていたことがあげられるだろう。情報公開制度がなければ、与党は政権運営のために行政情報を独占することが可能になる。自民党は、その行政情報をもとに「実現可能性の高い政策」を打ち出すことによって、選挙で勝ち続けていた。情報公開制度を導入することは、自らが独占しているその情報を野党に渡さなければならないことを意味していた。だからこそ、彼らは常に情報公開制度の導入に消極的だったのである。また官僚も、自民党政調部会の族議員とtぐながることで権力を維持していたため、この構造を崩す意思を持たなかったのである。
 しかし、行政の透明化を求める声は各地で高まり続け、1993年には行政手続法が制定された。それまで行政の一般的な手続きについて統一的に定めた法律は存在せず、それぞれの行政機関の裁量に委ねられていた。つまり、何らかの申請をおこなった場合でも、それを受理するか否かは各機関の判断によっていた。行政法学者の宇賀克也の言葉を借りれば、「行政が法律に基づいて行われなければならないという、近代法治国において当然のことが必ずしも十分に認識されず、このことは、実体面より手続面においては顕著であった。(略)申請をいかに処理するかは、担当の行政官次第という前近代的な「人治行政」が決して例外的とはいえないのが実態であった」のである。そして各行政機関は、行政手続法の制定には極めて消極的だった。まさに、各行政機関の分担管理原則が、統一的な手続法の制定を阻んでいたのである。この法律の制定によって、「申請権」が手続きのうえでも明確になった。行政手続法の制定は、情報公開法制定のための前提条件を作り上げることになった。p.75-6

 93年までずぶずぶの人治国家だったわけか。よくもまあ、それで法治国家とか、文書行政とか言えたもんだ。

 まず第一には、「政策決定過程」を請求したために、その文書が「不存在」だったケースである。筆者は、情報公開法施行直後からさまざなな文書を宮内庁などに請求していた。その際には、申請書に「○○に関する政策過程も含んだ文書」という書き方をしていたが、ほとんどのケースで「決裁文書」しか出てこなかった。当時、公文書管理について何も知らなかった筆者は、「決裁文書」しか出てこないのは単なるコミュニケーション齟齬の問題だと思っていた。つまり、歴史研究者が「重要」だと思う文書と、文書を探す官僚たちが「重要」と思っている文書が異なっているために、実際には存在していても「探せない」、もしくは「対象の文書だと気づけない」のではないかということである。しかしのちになって、実はこの「重要」の意味の食い違いが、文書を「残すか否か」の判断をするところから異なっていたことに気づくことになった。p.92-3


 注意したいのは、類似機関である情報公開。個人情報保護審査会も、発足当初は情報公開制度を専門的に研究してきた研究者や弁護士が委員に任命され、画期的な答申も多く出されたが、次第に高等裁判所長官や各省庁の審議官などのOBを任命することが慣習化し、消極的な審査が増えていったことである。委員は内閣総理大臣が任命するため、実質的には内閣府が人選することになる。この際に、中立的な審査をできる人が、どこまで委員に任命されるかわからない。委員構成が今後どのように変化するかにも、注目する必要があるだろう。p.237

 人事権を操るのは、官僚というか、権力の基本的な方法だしな。情報公開・個人情報保護審査会の人事については、そのうち調べよう。

 目録化が進んでいないのは、量の膨大さやタイトルに個人情報を含むものがあるためと思われるが、目録が整備されないと資料として非常に扱いづらい。法学者の浅古弘は民事判決原本を歴史資料として高く評価しており、裁判記録としての重要性だけではなく、「当該事件が発生した社会の諸相を反映する重要な資料」でもあると指摘している。今後、民事判決原本を用いた研究を発展させるためにも、どのようにして目録化を進めていくかが課題になるだろう。p.262

 民事裁判の判決記録の史料としての重要性。まあ、中世あたりには、日本もヨーロッパも、歴史史料の半ばが裁判記録だしな。近代にも、そういう使い方はできるだろう。むしろ、紛争にこそ、その時代の問題性がはっきり表れるという点では、歴史研究に利用できるようなってもらいたいものだと思う。

 しかし、そもそも立法府は最も説明責任が問われる機関である。立法府の構成員である国会議員は有権者に対する説明責任を負っており、自分たちの活動について積極的に情報を公開する必要がある。したがって、立法府に適用される情報公開法や公文書管理法を制定し、立法府全体での一体的な情報公開や文書管理制度を整備することが望まれる。p.266

 まったくもってその通りだと思うけど、そのあたりを秘密にしたいんだろうな。でないと、ロビー活動なんかも機能しなくなるだろうし。