「岡本篤翁之像」

 供合線の沿線にあるJA熊本市東部の敷地内に立っている銅像。道路からよく見えるところに立っている。このルート、普段は走りにくいから通らないのだが、そういう道を走るとこういう出会いもある。
 供合村の村長に県会議員に農協の長を長く続けてきた人。設置された1976年には65歳くらいか。あと、碑文が長え…
 撮影時に蜘蛛の巣に引っ掛かってえらい目にあった。あと、30年前の設置にしては、石に経年変化が見られないのがすごいな。




台座正面

岡本篤翁之像


 熊本県知事
   沢田一精謹書



台座左面

   経歴
自昭和五年四月  一日   熊本県立蚕業試験場業手
至〃 七年三月三十一日
自〃 七年四月一日     飽託郡養蚕業組合技手
至〃 十八年十一月
自〃 十八年六月  一日  供合村農業会代表幹事
至〃 二十年三月三十一日
自〃 十九年五月一日    供合村郵便局創立初代局長
至〃 二十二年五月三十一日
自〃 二十年四月      熊本県食糧調整委員
至〃 二十二年五月
自〃 二十年四月一日    供合村農業会々長
至〃 二十三年八月
 右同期          供合村農業共済組合
自〃 二十二年五月     飽託郡畜産組合組合長
至〃 二十四年四月
自〃 二十二年五月     供合村々長
至〃 二十六年四月
自〃 二十二年五月     全国食糧調整委員会理事
至〃 二十六年五月
自〃 二十二年五月     馬場楠堰水利組合長
至〃 二十六年五月
自〃 二十二年五月     供合村公民館長
至〃 三十年三月
自〃 二十二年六月     供合村農地委員会委員長
至〃 二十六年五月
自〃 二十三年八月     供合村農業協同組合理事
至〃 二十六年三月三十一日
自〃 二十六年四月     熊本県議会議員
至〃 三十八年五月
自〃 二十六年四月一日   供合農業協同組合
至  現在
自〃 二十六年七月     供合村託麻村熊本市農業委員
至〃 四十五年四月
自〃 二十六年十月     熊本県公民館連絡協議会長
至〃 三十八年四月
自〃 二十六年十一月    全国公民館連絡協議会副会長
至〃 三十八年六月
自〃 二十七年四月     熊本県社会教育委員
至〃 三十八年六月
自〃 二十八年四月     熊本県信用販売購買農業協同組合連合会理事
至〃 三十八年四月
自〃 三十三年七月     飽託郡畜産農業協同組合連合会
至  現在
自〃 三十三年八月     熊本県畜産販売農業協同組合連合会理事
至  現在


自昭和三十年四月      飽託郡農業協同組合長会々長
至〃 三十八年五月
自〃 三十年五月      馬場楠堰土地改良区理事長
至  現在
自〃 三十八年四月     熊本県経済農業協同組合副会長
至〃 四十四年四月
自〃 四十四年四月     熊本県共済農業協同組合連合会
至〃 五十年五月
自〃 四十四年六月     全国共済農業協同組合連合会実行委員会副委員長
至〃 四十七年四月
自〃 四十四年四月     熊本県農業会議理事
至〃 五十年五月
自〃 四十七年五月     全国共済農業協同組合連合会理事
至〃 五十年七月
自〃 五十年六月      熊本県収用委員会委員
至  現在
自〃 五十年六月      熊本県放送局番組審議委員会副委員長
至  現在
   表彰
昭和三十二年十一月     社会教育普及功労者として全国財
              団法人社会教育協会長表彰
昭和三十四年十一月三日   社会教育功労者として文部大臣表彰
昭和三十六年四月      十年以上県議会議員として全国議
              長会長より表彰
昭和三十八年六月      全国公民館協議会会長より長年副会
              長としての功労者表彰
昭和四十九年五月      全国中央農業協同組合連合会長よ
              り功労者として表彰
   特賜
昭和三十四年十一月三日   社会教育功労者として天皇陛下
              拝謁を受く
昭和四十七年五月二十日   黄綬褒章天皇陛下の賜謁を受く
昭和三十八年六月供合保育園用地四五〇坪寄附に付園長より感謝状



台座左面から裏面碑文

 岡本翁は明治四十四年十月五日旧飽託郡供合村大字上南部に生れた。四才にして父を失い、弟と共に母と
祖母によって育てられ、供合小学校、鎮西中学校、県立蚕業試験場附属技術員養成所に学んだ。
 昭和七年に飽託郡養蚕業組合連合会に職を奉じ、以来十二年間専ら斯業の発展に努めた。
 昭和十八年末その職を辞し郷土のため単身奔走して翌十九年供合郵便局を創設、初代局長になった。太平洋
戦争末期の二十年四月推されて供合村農業会々長に就任、折柄の深刻な食糧難時代にあたり県の食糧調整委員
として供米運動に身を挺したが、そのときの目覚ましい働きは、いまも尚語りぐさになっている。
 昭和二十二年五月村民の輿望を担い若干三十五才にして供合村長に就任したが、時未だ戦後日浅く人心の荒
廃と社会の混乱いまなお甚だしい現実に鑑み、自ら村民の先頭に立って昼夜を分たず東奔西走し、人心の安定
と徳義心の振興に懸命の努力を払った。その若々しい情熱と旺盛な行動力は強く村民の心を動かし、やがてそ
の浄財によって熊本県下最初の公民館の実現を見るに至った。以来ここを本拠として、社会教育の充実をはじ
め生産性向上の画策、健康管理のための診療所開設、東部中学校創設等広汎な公民館運動が展開された。この
間、勇断をもって旧殻を破り地域住民の人権尊重に画期的な施策を実践した。屋外放送による情操教育のごと
きも県下初めての試みであったが、今や全国津々浦々にまで普及している実情を見るとき、これに先鞭をつけ
たことは地方自治体の村づくり運動に模範的役割を果たしたものとして高く評価すべきであろう。昭和二十三年
第一回九州公民館大会が供合公民館に於いて開催されたのもまた当然と云うべきか。爾来この地域が平和裡に
調和のとれた発展の一途を辿ってきたのは、県会議員三期十二年、県共済農業協同組合連合会々長等四期十二
年間に亘る識見と、おのづからその身に備わった卓越した政治手腕に依るは勿論ながら、輝かしい歴史をもっ
た公民館運動によって培われた住民の誇りと郷土愛の精神に負うところが尠くなかった。
 戦後三十年、既成都市周辺の開発が進展し、当地区の動向も都市化への傾向を急速に強めていくなかで、地
域の開発に当っては環境保全と地権者の利益擁護、更には将来を見通した調和のある企画でなければならないと
云う観点に立って、昭和四十七年に県民総合運動公園を、そして同五十年には木材工業団地を誘致した。この
両施設が今後教育文化の向上、福利の増進、ひいては地域の発展に大きく貢献するものと信じ、その先見の明
に心から敬服するものである。
 一方、農畜産問題については執念にも似た情熱を燃やし、昭和二十六年以来今日まで、供合農業協同組合


 及び飽託郡畜産農業協同組合連合会長の任に在って、常に農家の見方としてあらゆる問題と取り組んできた
 なかでも従来馬場楠堰用水にのみ依存してきた供合地区の稲作は例年水不足に悩まされ、曽ては歴史的な水
騒動さえ引き起こした過去の事実に鑑み、就任の年の二十六年白川中流地区協議会々員となり、極力同会の理解
を求めて分水協定の締結を見るに至った。以来宿命的な水不足は解消され、今日の安定した稲作栽培ができる
るようになった。
 後に六・二六水害と呼ばれ、史上第一級のものとされている白川の氾濫による大水害は二十八年六月のこと
である。東部地区を主体とする村内多数の農家が、生活の基盤である水田を一夜のうちに砂泥の下に没し去ら
れあるいは流失した。その惨状は目を覆うばかりで復旧の目処さえ予測し難い有様であった。この重大な事態
に直面するや、全てを擲って被災者の救済と災害復旧対策に没頭する。排土作業が逸早く開始され、あらゆ
る障害を克服して短期間のうちにこの大事業を完了させ、翌年の田植えを可能ならしめたのも、その間勇敢適
切にして迅速なる対応手段がとられてきたからであり、そのときの災害復旧工事費に係る国の起債が、県下で
最初に認可された事実からもその一端が窺える。
 昭和五十年、地域農業経営の基盤を確立するため、土地改良事業の一環として第二次農業構造改善事業に着
手、その第一期工事地区である鹿帰瀬の圃場整備事業が翌五十一年三月見事に完成し、第二期工事地区とされてい
る弓削・山尻も既に工事前の作業を完了している。残る石原・中江・吉原・上南部・王田地区についても第三
次の同事業によって五十年代には基盤整備を完了する計画が樹てられている。
 これら多年に亘る偉大な功績によって、社会教育功労者としての文部大臣表彰、農協功労者としての全国農
協中央会長表彰更には黄綬褒章を受賞された事もけだし当然と云えよう。
 以上の如く長年に亘り強固なる信念と、燃え上がる情熱をもってひたすら郷土の為に尽力し、今日の発展を
招来された功績を讃えこれを顕彰せんがため、茲に郷党相諮り胸像を建設して末永く後世に伝えんとするもの
である。
    昭和五十一年十月五日   建設委員会一同