「川施餓鬼碑」

 津白橋の北岸川たもとにいくつか存在する石碑の類のひとつ。上津久礼集落の伝統行事だった川施餓鬼が菊陽町の無形民俗文化財に指定された記念に建てられたもののようだ。石碑の左下は地衣類が繁殖していて、ちょっと読めなかった。
 津久礼集落ってのは、白川の段丘崖に張り付いたように立地している、独特の形態を持った集落なのだが、ああいう形になった経緯が藩命による移転だったのか。
上津久礼の川施餓鬼(かみつくれのかわせがき)


石碑正面

 今を去る凡そ三百余年前、徳川時代の中頃、当時の上津久礼部落は、白川北岸の北
の地付近に在り、十七戸と伝えられた家の人々は、専ら家畜と供に農業による生活を
続けていたが、度々の水害や疫病に悩まされ、それ等から免れんと、部落挙げての移
住を決し、産土神たる若宮八幡を奉じ、現在地に居住する事となった
 爾来此の地において先祖及び災難に会った人々や家畜の霊を慰める追善供養及び現
住民の無病息災を願って、毎年盂蘭盆過ぎに施餓鬼を行ない、浄流水中に供物を投じ
て餓鬼に施すと共に、家畜の造物等を水中に浮かべ、興を添え慰霊し○○○○○○○
 昭和五十三年五月、菊陽町は住民の伝統行事である○の川施餓鬼を○○○るものと
認め、文化財として保護する事となった。因て茲に由来の碑を建立す
   昭和五十五年○月



台座

菊陽町
   阪本 貢
上津久礼区長
   高野良夫
代理
   松村重人
会計
   三嶋浩俊
区民一同
二七八戸