宇土市史編纂委員会編『宇土の今昔 百ものがたり』

 『宇土市史』の普及版という位置付けで発行された書物。宇土市域の古代から現在までの歴史を100のエピソードに分けて紹介している。これもそこそこお固い感じだが、もとの市史よりはサクサクと読めるかな。昨年末から読んでいたが、読了は年をまたいだ。
 宇土市はほとんどうろついたことはないけど、本書を地図と付き合わせながら読むと、風土が見えてくるようで楽しい。巻末には歴史散策マップも付いているので本書を片手にうろうろするのも楽しそう。
 地下水の質が悪く、雨量も県内では少ない方で、宇土市域は用水に苦労してきた土地柄なのだそうで。だからこそ、轟水源からの水道をわざわざ建設したのかと納得した。あとは、宇土半島の付け根の宇土から松橋あたりは古代の火の君の根拠地だった話とか。宇土半島、天草、長崎県東シナ海沿いってのが、古代の火の国の一つの基軸だったのかね。古墳はかなりが近代の開発で破壊されているそうで残念。あとは、宇土の牧の話とか。


 以下、メモ:

 前方後円墳の総数は日本列島全体で五〇〇〇を超えるが、じつは、そうした古墳に葬られた権力者たちの住まいが明らかになった事例はそれほど多くない。そうしたなかにあって、西岡台遺跡は、溝全体の輪郭がほぼ明らかな県内唯一の事例として、古墳研究者の注目を集めているのである。
 しかし、大きな問題点が一つある。それは、溝以外の古墳時代の遺構がまったく検出されていないことである。ほぼ同じ地点に中世宇土城の主郭が築かれたことがその原因であるが、溝の内側にどのような建物があり、それがどのような機能を果たしていたのかなど、そこに暮らした権力者の活動内容を具体的に知ることができないのである。これは、西岡台遺跡が抱える致命的な欠陥である。p.29

 中世宇土城があった西岡台には、古墳時代の豪族の館も存在したそうだ。地図を見ても手ごろな場所ではあるな。

 この絵図は、宇土郡松山手永を灌漑するために、遠く緑川河口近くの下益城郡杉島手永の築地村の堰から井手筋(水路)を掘り、遠隔通水するために高低を測量したものである。総延長一六キロに及ぶ井手筋の一部は今も残っている。松山手永は領内きっての渇水地帯である。こうした遠距離の井手筋開削によって内陸渇水地帯への通水が可能となり、ついで井手筋の中央部に位置して周辺農村に水を供給するための貯水池たる立岡堤の大幅な拡張工事、立岡堤からの通水を受けるための井手筋の開削へと展開する。p.158-9

 立岡堤には石碑がありそうだなあ。

 宇土市宮庄町の轟水源西側に建つ大太鼓収蔵館には、江戸時代から大正時代にかけて作られた大太鼓二六基が収蔵されている。これだけの大太鼓が現存している地域は全国でも例がなく、胴回り三〜五メートルの大太鼓がずらりと並ぶ様子は壮観である。p.164

 メモ。轟水源まで行く機会があったら訪れてみよう。何でも、雨乞いの太鼓で、かつては集落ごとにもっていたものらしい。

 また、宇土細川家が雨乞い祈願を行っていたことを今に伝える秘宝がある。「鮓荅」である。鮓荅とは馬や牛などの腹の中にできた結石のことで、直径一三センチほどのなめらかな球形で、淡いベージュ色をしている。細川家では旱魃のたびにこれを轟水源に漬けて、雨乞い祈願を行っていた。最近では一九三四(昭和九)年に行われ、その後数日間雨が降ったという記録も残っている。鮓荅が納められた木箱には、一七七二(明和九)年に細川家がこれを購入したこと、オランダ語で鮓荅を意味する「ヘイサルバサル」という文字が書かれている。p.166

 ん? ケサランバサラン?

 このように多くの銀行が、倒産・解散などするなか、九州商業銀行も苦しい対応を迫られたが、これを乗り切り、やがて、熊本銀行と改称した。その後、一九二五(大正一四)年七月二五日に肥後協同銀行(昭和三年肥後銀行と商号変更)を設立し、現在の肥後銀行の基礎を築くのである。p.183

 肥後銀行の基礎が、宇土で設立された第135国立銀行だったという話。

 熊本では食習慣のなかったイナゴをオカエビと称して食うことが奨励された。栄養満点といわれ、煎って食べると香ばしくて旨かったと言うひとが多いが、戦後、熊本ではイナゴを食う食習慣は定着しなかった。p.237

 戦時中にバッタ食が奨励された話。割と普通に食べられたとは思うが、もともと食習慣のないところでは、わざわざ捕まえて食べたりはしないよなあ…

 本土決戦に備えた第一六方面軍直轄の第二一六師団が熊本に配備されたのは一九四五(昭和二〇)年五月のことであった。横山勇中将を師団長に京都で編成され、通称「比叡部隊」といった。五月一〇日に司令部を分散教育で空き家となっていた宇土国民学校の講堂に置き、兵員は宇土・甲佐・八代・山鹿・松橋・高瀬・小川などに配備された。
 宇土地区では宇土国民学校宇土中学校、轟国民学校などに駐屯し、師団長は国民学校近くの立派な屋敷を接収して寄宿していた。
 歩兵三個連隊・迫撃連隊・速射砲・機関砲・工兵・輜重・兵器勤務・野戦病院の各隊等からなる、優れた戦力を備えた文字通り「決戦師団」であったが、はんなりとした京都弁を話す兵士たちは、無骨な肥後人の目には軟弱な兵隊に見えた。p.239

 番号からして精鋭部隊ではありえないよなあ。一応「機動打撃師団」扱いだから、沿岸貼り付けの師団よりはましだったんだろうけど、最貧なことには変わりなさそう。兵員のプールも枯渇していただろうから、兵隊が頼りないのも確かだろうし。Wikipediaを見ると、砲兵連隊も付いていたようだから、それなりの装備だったようだけど。
 あと、えらく分散しているな。実際、これだけ広く分散すると、戦闘時に集結もできないんじゃなかろうか。まあ、集まっていると、爆撃で潰されかねないってことなんだろうけど。

 全国町村会道州制と町村に関する研究会」は二〇〇八年一〇月、報告書「『平成の合併』をめぐる実態と評価」を発表。議員や職員の削減、重複投資の解消などによる「財政支出の削減」や「職員の能力向上」などを平成の大合併のプラス効果とするいっぽう、「行政と住民相互の連帯の弱まり」「財政計画との乖離」「周辺部の衰退」をマイナス効果とした。また、厳しい財政状況や府県の強力な指導が市町村合併の向かわせた、と総括。「合併を選択しなかった市町村を、正当に評価することが必要」とも指摘している。p.287

 結局、「財政の都合」であって、「地方自治」とか「基礎自治体」とかの問題ではないんだよな。「地方主権」とかおためごかしもいい加減にしてほしい。異様に広い自治体もできてるし。