- 作者: 新宮譲治
- 出版社/メーカー: 光陽出版社
- 発売日: 2000/05
- メディア: 単行本
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埼玉県の明治年間の戦争関係の石碑を判読し、神社境内への石碑建設の許可申請を埼玉県の行政文書から拾い出し、近代国民国家への教化のメディアとしての戦没者顕彰碑の性格や国の規制が顕彰碑の正確に与えた影響を明らかにしている。設置許可願と突き合わせる手法は興味深いが、熊本県の行政文書に残っているかな。
あと、熊本県では日清戦争の石碑の存在感がものすごく薄いんだよな。第六師団が威海衛に行っただけだから、ほとんど戦死者も出ていないし。日露戦争に関しても、出征記念碑は何例か見かけたけど、凱旋記念碑は二例程度しか見ていない。戦没者の個人碑に至っては、未だに遭遇したことがないな。熊本市内の戦争碑だと、大正以降に建設された西南戦争関係が目立つ印象。あとは、第二次世界大戦の戦没者の墓碑か。石碑一つとっても、地域差の大きさが印象的。まあ、明治時代の石碑になると、碑文が読みにくいのが多いので、見落としも多いと思うけど。
明治期の戦争、西南・日清・日露ごとに石碑の性格が異なるというのも興味深い。西南戦争の戦没者を悼む石碑が、当該人物の関係者を中心に建てられていること。これに対し、日清戦争では、戦没者個人碑が地域の名望家を中心に村落共同体を核にして建設され、国家への忠誠と親への孝行という徳目が強調される教化のメディアの性格を持ったこと。ついで、日露戦争では戦死者の続出が村落共同体レベルでの扶助を不可能にし国家の介入を要請したこと。さらに戦死者が続出し、個人碑が林立することを懸念した国家の規制により、寺社境内などの公的な場への設置が規制される。結果、個人碑は私有地や墓地などに建てられる個人的な営みになり、共同体による寺社への建立が凱旋記念碑や戦利品奉納記念碑になったことが指摘される。また、戦利品奉納記念碑は国家の戦利品払下げに伴う、上からの半強制的な性格が、建設時期から見てとれるという。
以下、メモ:
碑文に表れる思想や感情は、戦没者のそれではなく、戦没者のために碑を建てる生きている側の思いである。碑が建設された時代、建碑の主体に私がこだわるゆえんはそこにある。日清戦争後、地域名望家が主導して村人などの共同体で建碑される時期、家族の私事として建設された碑であれば、おのずと哀悼に傾いた碑文になろう。p.82
文献メモ:
籠谷次郎「戦没者碑と『忠魂碑』」『歴史評論』No.406,1984
大原康男『忠魂碑の研究』暁書房、1981asin:4900032522