鈴木勇一郎『おみやげと鉄道:名物で語る日本近代史』

おみやげと鉄道 名物で語る日本近代史

おみやげと鉄道 名物で語る日本近代史

 旅行先から買ってきたお菓子などを配る日本のお土産文化の形成を、鉄道やメディアといった近代の交通や情報の変化を中心に検証している書物。ディテールが豊富すぎて、全体像が逆にわかりにくいきらいもあるが。現在、お土産として著名な産物が、どのようにして現在の姿になったのかが実に興味深い。結構時間がかかったうえに、読みなおすのが面倒なので、読み終わってからも数日放置していた。
 もともと現地で味わうものであった「名物」が鉄道による交通の高速化により、持ち帰ることができるようになったこと。さらに「名物」側も保存性を向上させる改良によって、お土産となっていく。特に駅構内の販売が「メディア」として重要であったという指摘。ガイドブックやさまざまなメディアを通した知名度や由緒・土地性との接続が重要であったと指摘する。吉備団子が「名物」として確立する過程では、日清戦争で軍人の動員が鉄道をつうじて行われた地の利と桃太郎=武運といったメディア戦略の双方が作用したことを指摘している。
 第二章は赤福が名物として地位を確立していく過程を伊勢の観光地としての発展に絡めて。古くから存在した赤福ではあるが、お土産としての存在感はかなり後々まで小さかったと指摘される。保存性の問題から現地で食べるものであり続けたこと。保存性の改良が重要であったこと。戦前から修学旅行を主な経路として知名度を上げていった状況。鉄道の構内販売を通じた販路の拡大。一方で、販路を名古屋から大阪までに限ることで地域性を維持したという側面も。
 第三章は博覧会と名物の関係。旅行者相手ということで、ぼったくりや粗悪品を売りつけると言った問題があり、評価を維持するために品質の統制が要求された状況。全国菓子博覧会や内国博覧会への出品し入選することが、知名度と品質の評価につながり、大垣の柿羊羹のように競争になった状況。同時に、博覧会をつうじて、各地のアイデアが広い範囲に影響していく状況。
 第四章は近代の日本が帝国として海外に拡大していく状況がどのようにおみやげに影響を与えたのかについて。大概戦争の動員基地である宇品の存在が宮島の土産物やもみじ饅頭の事例、北海道や台湾といった領土の拡大の影響が根室のバナナ饅頭や木彫りの熊を事例として、小城羊羹や成田の羊羹が軍への納入や戦勝祈願といった動きとの関連で語られる。
 第五章は温泉旅行とおみやげ。そもそも、温泉というのは長期の湯治に行くもので、現在のような短期旅行で温泉につかりに行くという行動が近代の産物であること。食料品のお土産というのは、なかなか定着しなかった状況。道後温泉坊っちゃん団子というものが出現するのが昭和10年代以降だとか。むしろ工芸系の土産物が多かったこと。団体客対応として発展してきた経緯など。
 第六章は戦後の展開。モータリゼーションと航空機の影響。ドライブインからパーキングエリアの販売施設への変化。PAの販売施設が独占施設であり、その点で戦前の鉄道の構内販売に似た性格を持つこと。機内食への採用、空港での販売、メディアによるイメージ戦略が、歴史的な「由緒」を持たない菓子を、地域の名物に押し上げた事例として、「萩の月」「白い恋人」「東京ばな奈」などが紹介される。旅行の個人化とお土産のスーベニア化、全国的な画一化、それでもお土産を配るという習慣が根強いことなどが指摘される。
 各地のさまざまな名物に目配りし、近代の土産物の発達を追った労作。それだけに読むほうも苦労するところがある作品。良く考えるとこの値段でこの内容はコストパフォーマンスがすごいな。正直、外見からは予想もつかない濃さだった。


 以下、メモ:

 外国で売られているおみやげの中にも、食べ物類がないわけではない。ハワイのおみやげとして知られているマカデミアナッツチョコレートは、その代表的なものであろう。しかし、この商品も、一九六〇年ごろにハワイ在住の日系人が開発したものであり、日本のおみやげ文化の影響を抜きにして、その成立を考えることはできない。外国、とりわけ欧米諸国においては、お菓子類の名物的なおみやげというのは、かなり例外的な存在であることはまちがいないだろう。p.12

 海外ではお菓子をおみやげとして購入し、周囲に配る習慣が薄いこと。ハワイのマカデミアナッツチョコも日本のおみやげ文化の延長線上の存在であるという話。

 鉄道の開通は、新たな名物が生み出される大きな契機ともなった。たとえば、明治三十年に京都二条・嵯峨間に京都鉄道が開業すると、沿線にある嵐山や嵯峨野など古くから知られた名所では、「花より団子」という団子や、「桜餅」が名物として売り出されるようになる。
(中略)
 明治三十六年に京都鉄道が発行した沿線のガイドブックでは、花より団子、桜餅は「召食る」ものとして紹介されており、当初はその場で食べることを前提としていたようだ(おみやげとしては、桜のステッキや竹硯といった手工業品、もしくは天龍寺納豆や鮎の煎餅といった保存がききやすい食品が挙げられている)。もちろん、おみやげとしての需要がまったくなかったわけではないようだが、特に保存性や容器の改良が行われた形跡は確認できない。
 その場で食べることを前提とする名物は、販路が限られることもあり、売上の拡大には限界がある。大きく発展するためには、販路の拡張、保存性や携帯性の改良などの課題をクリアしておみやげ化していく必要がある。また、嵐山のような歴史にまみれた土地の名物は、何らかの形で歴史の中に由緒づけられることが一般的である。だが、「花より団子」「桜餅」は、そうした要素を欠いており、物足りない印象は禁じえない。古くから桜の名所として知られる嵐山で「花より団子」というのは、なかなか味わい深いネーミングであるが、現在では廃絶してしまっているようだ。名物としていまひとつメジャーになれなかった背景には、ここで述べたような要因が作用していたことは否めないだろう。p.30-32

 かつて嵐山には「花より団子」という名物の団子があったという話。まったく形跡ないよな。桜餅はまだ、一般的な産物として存在しているけど。「名物」が生き残っていくには、販路、保存性、歴史的な由緒などの要因が必要という話。

 近世以来、安倍川のたもとの茶屋で売られていた安倍川餅は、餅にきなこをまぶしたものであった。だが、静岡駅名物として売られるようになった安倍川餅は、実は、餅ではなく求肥である。
 求肥とは、白玉粉や餅粉を水で溶き、砂糖や水飴を入れて練って作る和菓子の素材の一種である。柔らかい口当たりとともに、通常の餅に比べて保存性が高いのが大きな特徴である。実は、近世の名物餅が近代のおみやげとして転形を遂げていくのに、この求肥が大きな役割を果たしていた。p.34

 近世の名物がおみやげとして生き残っていくには、保存性を含めた変化が必要であったという話。

 現在、八ツ橋は京都の代表的なおみやげのひとつとして、全国的に名を知られている。八ツ橋の起源は、「聖護院の門跡に諸国の山伏に入り込みし時代より夫等の人々伝へ」てきたとも、元禄二(一六八九)年に三河国八ツ橋寺の僧に秘法を授けられたことに始まるともいわれ、その由来については諸説ある。いずれにせよ、近世から存在したこと自体はまちがいない。しかし、明治二十八年に『風俗画報』が紹介した京都名物のなかに、八ツ橋は入っていない。よって、必ずしもそれほど古くからメジャーなものとなっていたわけではないようだ。p.56

 明治にはメジャーなものではなかったが、明治末に保存性が改良されて広がったこと。本家争いが知名度向上をもたらしたとか。生八ツ橋に至ってはもっと最近だしな。

 しかし、明治時代の豊島屋は、鳩サブレーではなく、「古代瓦煎餅」というせんべいを代表的な商品としていた。近世のうちから、神奈川の亀の甲煎餅などが名物として知られていたが、明治以降は、神戸や高松の瓦煎餅をはじめ全国各地でせんべいが名物となっていった。さらに、明治三十年ごろに発売された和歌山の和歌浦煎餅のように、缶入りとなることによって保存性が向上すると、せんべいはさらに各地で名物とされるようになる。ちなみに、和歌浦煎餅は、古くから名所として知られていた和歌浦の風景を焼印にすることで、名所としての由緒との関連性を持たせていた。p.63

 煎餅が各地で名物とされた要因。保存性の問題は常に重要だったんだな。

 その後、「物産」の中には、嗜好の変化によって衰退していったものも少なくない。その代表として貝細工を挙げることができる。かつては、全国各地の海辺の名所で、おみやげ品として製造販売されていたものである。伊勢にせよ、宮島にせよ、古くから栄えてきた海辺の名所の多くでは、貝細工が名物とされてきた。そうした中でも、とくに神奈川県の江の島の貝細工は最もよく知られていた。
(中略)
 後で触れる安芸の宮島もそうだが、江の島には、耕作をする田畑はほとんどなかった。住民は、「旅館と、貝細工店と、漁夫で、農工に従事する者は一もない」状態であったので、必然的に参詣客や行楽客を対象とした事業に力を入れるようになった。江の島の表玄関に位置する茶屋街では、路面に煉瓦を敷き詰め、旅館、貝細工店、羊羹屋、食堂などが軒を並べる、門前町が形づくられていった。そこでは、のり羊羹、鯛羊羹、海老羊羹、海産物あられ、黄金煎餅、饅頭といった名産食品が売られるようになった。
 中でも、江の島貝細工は、その創始を鎌倉時代に遡るともいわれ、古い歴史を持つ。だが、大きく発展するようになったのは、明治時代になって渡辺伝七が登場して以降のことである。明治六(一八七三)年に江の島の漁師の子として生れた渡辺は。当初は島外で桶屋や材木店などで生計を立てることを目論んでいたが、島内でも営むことができる生業として、貝細工に着目するようになった。しかし。当時の江の島の貝細工は、「ごく幼稚なもので、貝殻を集めてきて、それを姫糊でくっつけて、作りあげる屏風程度のもの、一つとしてろくなものは無い」という有様であった。
 そこで、渡辺は、箱根細工といった近隣の名産品を上回ることを意識する。原料の貝は、地元産だけでなく、北海道や美濃地方といった国内はもちろんのこと、遠くは中国や東南アジアから取りよせて、生産に当るようになった。また、明治三十九年には貝細工工場を建設し、個人による製造だけでなく、量産体制も整備していった。渡辺は、貝細工を地元江の島で販売することに加えて、伊勢や松島などといった各地の名所などにも、広く製品を卸すようになった。p.101-3

 江の島の貝細工の話。まあ、この手の雑貨生産は、需要が変わらなくても国内生産は難しくなっていただろうな。あと、鯛羊羹とか、のり羊羹とか、どんなものだったんだろう。

 このように橿原の地元名物の創出という主催者のねらいは、一応当たった。だが、一等賞が該当作なしとされたように、際立ったインパクトを持った名物がここから生まれてくることはなかった。また、ここで入賞した商品の中から、地域を代表する名物おみやげに成長していったものも見当たらない。品名がこじつけに過ぎるものが多かったのか、単純にあまりおいしくなかったのか、今となってはよくわからない。ともかくも、名物の創出は、由緒と商品自体の内容との微妙なバランスの上に成り立っており、最初から意図して造り出すのは非常に難しいということを、この事例は示している。p.116

 名物を意図して創出するのは難しいという話。由緒、宣伝、販路なんかが複合的に合わさるものだしな。

 明治三十八年、南新助は旅行斡旋業にも進出するが、最初の企画は、高野山参詣団と伊勢神宮参拝団であり、その後も浄土宗開宗記念団や善光寺参詣団など、社寺参詣がその主力を占めていた。つまり、伝統的な社寺参詣に軸足を置いて発展の基礎を築いたとみることができるだろう。そうした意味で、当初から外国人観光客に主眼を置いていたJTBとは、対照的な性格を持った企業であった。近代日本における旅行業は、JTB的なものと日本旅行的なもののせめぎあいの中で展開してきたということもできよう。こうした近代の旅行をめぐる対照的な構造は、おみやげの開発という面においても、見出すことができる。p.118

 有名旅行代理店である日本旅行草津駅の構内販売業者が起源で、伝統的な社寺参詣に軸足を置いて発展したこと。これは、外国人観光客の誘致・便宜を目的としたJTBとは対照的な性格を持つという指摘。

 こうした「軍都」や連隊所在地などには、除隊兵士向けの「軍人土産」を販売する商店が存在していた。これは、郷里の人々から大々的に送り出された兵士たちが、除隊時に持ち帰り帰郷してから配るというものであった。こうした習慣は入営者の家族に多くの負担をかけることもあり、その廃絶が長く叫ばれていたが、入営時に郷里の人々から多くの餞別などを受け取ることがある以上、簡単になくなるものではなかった。兵役という「通過儀礼」を終えた兵士たちの、その証明ないし記念という性格もあったからである。
 このような観点からすると、軍人みやげは、伝統的なおみやげとしての系譜を踏んだものであったとみることもできよう。なお、こうした場合の軍人みやげとして一般的であったのが、「除隊記念」などの文字が入った盃や徳利である。現在でも、古道具屋や各地の郷土資料館などで、これらを数多く目にすることができる。p.135-6

 軍人みやげ。「兵隊盃」としてコレクションの対象になっているな。

 そして、もみじ饅頭が、今日のように広島県を代表するおみやげとしての地位を確固たるものにした経緯は、周知のとおりである。昭和五十五年、人気漫才師であったB&Bが、もみじ饅頭をネタにしたことが、大きな転機となった。この年には、広島地区の鉄道弘済会売店での売り上げが、対前年度比九・九%増の高い伸びを示したという。後で触れる仙台の「萩の月」もそうだが、この時期から、テレビをはじめとするメディアの発達が、おみやげの盛衰にとって重要な要素となってきたのである。p.141

 テレビと名物。割と最近の話なんだな。

 森永の作る羊羹の名は、次第に広まっていった。そして、大きな転機となったのが、明治二十七年の日清戦争の勃発である。森永の製造した羊羹が軍隊の酒保(売店)用品として納品されると、「他地方の菓子類は概ね変質腐敗を来す五月雨時に至っても、毫も異状を来さなかった」とされ、注文が殺到するようになったという。その後も、明治三十一年二月には白羊羹、翌年には茶羊羹を発案し、さらに明治三十五年に開催された全国菓子品評会でも入賞するなど、森永は改良を続けた。こうして、明治三十年代末には、小城のみならず佐賀県の名物として、小城羊羹は、その名を知られるようになていった。p.154

 小城羊羹の初期的発展。軍隊への納入の重要性。

 一方で、現在貝細工をはじめとする各地の工芸品の置かれた状況は、非常に厳しいものがある。たとえば、江の島では貝細工について、美術史家の木村直之は、次のように述べている。


 参道に面した土産物屋の店先に、今でも貝細工は並んでいる。しかし、買い手は滅多にいないという。買って帰ったところで、それを飾る場所は家の中のどこにもないし、こうした細工を面白がる気持ちをもはや誰も持ち合わせてはいないだろう。貝細工の居場所は、埃をかぶったショーケースの中にしかない。


 江戸時代の終わりから明治にかけて、各種の技巧を尽くした「造り物」が盛んに作られ、江の島でも参詣客が喜んでこれらを買い求めていた。木下は、幕末から明治にかけて隆盛を極めた、こうした「造り物」というジャンル自体が衰退していったことに、その大きな要因を求めている。北海道では、木彫りの熊などといった民芸品も、最盛期の一九六〇年代に旭川市だけで五十億円超といわれた販売額は、二十一世紀に入るとその十分の一程度に落ち込んだとされている。重くてかさばる、家に飾る場所がないといったことに、その衰退の大きな原因が求められている。p.173-4

 まあなあ、飾る場所がないというのは大きなネックだと思う。あと、まともなものを買い求めようとすると、目玉の飛び出るような値段になってしまうあたりも問題のような。

 多くの人々の嗜好やセンスが変わったことは、たしかに大きな要因であろう。だが、地域性の希薄化も見逃すことができない要素であろう。
 手工業品や食品類を問わず、同一・同質の商品が展開していくという傾向は、高度成長期以降、さらに進んだ。たとえば、昭和四十年代後半、山中湖で売られている土産物の半分近くが、東京や長野、静岡など県外からの移入に頼るようになっていた。こうした流れの中、長野県長野市タカチホ鳥取県米子市に本社を置く寿製菓のように、おみやげ用に全国的に販路を展開する菓子メーカーも、大きく成長を遂げてきた。
 昭和二十四年に創業したタカチホは、当初は食料品から衣料や玩具などの販売を手がけていたが、昭和二十六年から、善光寺門前町で手ぬぐいなどの販売を手がけるようになる。そして、昭和三十年代以降は、本格的におみやげの卸売りを展開するようになった。
 さらに、製菓工場を建設し、自社での製造販売も開始して、全国展開するようになっている。同社では、「営業所が販売元なので中身が同じでもパッケージを地元向けに変更したり、ラベルに販売店と同一地域の住所を記載できる」として、全国各地の観光地などに商品を提供している。
 一方、昭和二十七年に創業した寿製菓は、当初から菓子の製造販売を行っていた。それが、同じく昭和三十年代に入ると、観光みやげ部門へも進出をはかるようになっていった。「因幡のうさぎ」など、地元の銘菓を手がけていたものが、昭和五十年代以降、全国にも事業を展開するようになっている。p.174-5


 明治初期、もっとも多くの入湯客を集めていたのは道後温泉である。それに続くランキング上位は、武雄(佐賀県)、山鹿(熊本県)、浅間(長野県)、霧島(鹿児島県)、渋(長野県)、二日市(福岡県)といった具合である。少なくとも、現在一般的にイメージされる温泉地の分布とは、大きく異なる姿であることは、はっきりとみてとれる。p.179

 九州勢と長野が強い感じだな。

 この時期、熱海を訪れる客の主体となったのは、団体の短期遊覧客であった。昭和十年代には、収容定員五百人を超える大型旅館が出現するなど、団体客に対応する形で温泉施設の整備が進んだ。昭和十二年には熱海は市制を施行し、温泉観光都市へと変容を遂げる。p.197-8

 昭和十年代から、既に温泉地ってのは団体客対応だったんだな。1980年代あたりまで、それ対応のストックを積み上げ続けた結果、既存温泉地は個人旅行に対応できず苦戦していると。ツーリズムに関しては、戦前と戦後がかなりシームレスに連続している印象だけど、これもその例だなあ。

 他の多くの温泉地と同じように、別府でも、手工業品が名産品として長らく知られていた。別府では、豊富な竹材を利用した竹製品が代表的であり、すでに明治のはじめごろから、素朴な簾、柱かけなどを、農漁村の副業として生産していた。
 こうした状況は、明治三十年代に入ると変化していく。三十五年には、別府工業徒弟学校が創立され竹藍科を設けるなど、組織的に名産品を育成する取り組みが始まった。その際、有馬から人を招き、竹細工の製造技術の指導を受けている。このように、他の温泉地から、名産品の製造技術を貪欲に取り入れるようになった。
 すでに箱根細工のところでもみたが、古くからの温泉地は、工芸品の製造が盛んであったところが少なくない。有馬でも、筆や竹器、挽物細工、染楊枝などが生産されていた。これらは、有馬みやげとして知られるほか、海外への輸出も少なくなかった。ところが、明治末期から大正初期にかけて、有馬では、手工業品の生産が急速に衰退していった。有馬から別府への技術移入は、こうしたことも背景となっていたのである。有馬での名産品生産の変容の要因は、別に検討する必要があるだろう。だが、ここでは、各温泉地で同じような名物が多い要因の一つとして、こうした技術の移転があったことを指摘しておくにとどめたい。p200-1

 温泉地の名産品の均質化の要因としての技術移転。未だに竹製品は、別府の名産となってはいるな。外にまで名が響いているかというと微妙感はあるけど。あと、工芸品って、高いのがな。

 こうした団体旅行では、宿に着くとまず風呂に入り、お揃いの浴衣を着て、宴会場で飲めや歌えの大騒ぎをして、夜の街に繰り出す、というのがお決まりのパターンであった。「夜の街」では「土産物屋を漁って、いかがわしい絵巻物や博多人形、黄揚細工など、猟奇的な土産物を掘り出せる」(別府)ようなこともあっただろう。p.206

 1970年頃までの温泉地での観光のパターン。「猟奇的な土産物」ってどんなものだったんだろうな。まあ、しょぼいものではあったんだろうけど。
 モータリゼーションが進んで、車で家族旅行というのが普及したのが、いろいろと変容する要因の一つだったんだろうな。

 その欠点克服のために注目されたのが、当時は輸入毛皮の保存に使われていた脱酸素剤である。これを菓子の袋に入れることで、新鮮な風味を保つことに成功した。この工夫の実用化には難航し、約一年の開発期間がかかったという。ここでも、生ものをおみやげ化するために、保存性の改良がカギとなったのである。p.220

 「萩の月」が売れるようになるために保存性の改善が重要であったという話。当初は売れなかったのだとか。

 本書の冒頭で、日本のおみやげは、神仏の「おかげ」を郷里の人々と分かち合うことに、本来の意味があったと指摘した。したがって、その旅は、共同体を背景とした団体旅行であることが基本であった。代参講から軍隊、学校、農協など、その母体はさまざまに変化しつつも、戦前戦後を通じて、日本人の旅行は団体旅行であることが多かった。個人単位での旅行であっても、共同体を背景としていた場合が少なくなかった。そして、その旅行の「証明」や「記念」として、日本のおみやげ文化が発達してきたというわけである。p.237-8

 共同体を背景とした旅行が日本のおみやげ文化の背景にあるという話。だからこそ、配る行為が根強いと。


 文献メモ:
 注から、比較的最近の研究書を中心に。観光って、いろいろな問題に接続するんだなあ。
日本交通公社編『観光の現状と課題』日本交通公社、1979
神崎宜武『おみやげ:贈答と旅の日本文化』青弓社、1997
橋本和也『観光経験の人類学』世界思想社、2011
大石勇『伝統工芸の創生』吉川弘文館、1994
宇治市歴史資料館編『幕末・明治京都名所案内:旅のみやげは社寺境内図』宇治市歴史資料館、2004
池上真由美『江戸庶民の信仰と行楽』同成社、2002
小島英俊『鉄道という文化』角川選書、2010
神奈川県立歴史博物館『特別展ようこそかながわへ:20世紀前半の観光文化』神奈川県立歴史博物館、2007
国立歴史民俗博物館編『旅:江戸の旅から鉄道旅行へ』国立歴史民俗博物館、2008
中川浩一『旅の文化誌』伝統と現代社、1979
野国明『観光京都研究序説』文理閣、2007
武田真『銘菓の神話とマーケティングの話』中経出版、1977
高木博志『近代天皇制の文化史的研究』校倉書房、1997
山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版会、1999
佐藤道信『〈日本美術〉誕生』講談社選書メチエ、1996
宮本常一編著『旅の民俗と歴史5:伊勢参宮』八坂書房、1987
古川隆久皇紀・万博・オリンピック』中公新書、1998
白幡洋三郎『旅行ノススメ』中公新書、1996
吉見俊哉『博覧会の政治学:まなざしの近代』中公新書、1992
山本武利、西沢保編著『百貨店の文化史』世界思想社、1999
初田亨『百貨店の誕生』三省堂選書、1993
原淳一郎『近世寺社参詣の研究』思文閣出版、2007
清川雪彦『日本の経済発展と技術普及』東洋経済新報社、1995
国雄行『博覧会の時代』岩田書院、2005
高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店、2006
金倉義慧『旭川アイヌ民族近現代史』高文研、2006
片倉佳史『台湾鉄道と日本人』交通新聞社新書、2010
赤井達郎『菓子の文化誌』河原書店、2005
木下直之『世の途中から隠されていること』晶文社、2002
山村順次『観光地の形成過程と機能』御茶の水書房、1994
関戸明子『近代ツーリズムと温泉』ナカニシヤ出版、2007
大分大学経済研究所『温泉観光都市の経済的考察』大分大学経済研究所、1953
森本孝編『東海北陸2:宮本常一とあるいた昭和の日本10』農山漁村文化協会、2010
谷元研『ペナント・ジャパン』パルコエンタテイメント事業局、2004
鈴木實『革新する土産品営業』全国観光と物産新聞社、1996
前川健一『異国憧憬:戦後海外旅行外史』JTB、2003
吉田光邦編『万国博覧会の研究』思文閣出版、1986
加藤陽子『徴兵制と近代日本』吉川弘文館、1996
一ノ瀬俊也『近代日本の徴兵制と社会』吉川弘文館、2004
川西英通『せめぎあう地域と軍隊』岩波書店、2010


 こちらは論文類。
鍛冶博之「観光学のなかに土産物研究」『社会科学』77号、2006
鍛冶博之「土産物としての地域限定菓子」『市場史研究』27号、2007
西嶋晃「近世における名物販売の確立と地域への影響」『駒澤大学大学院史学論集』38号、2008
加原奈穂子「旅みやげのやってんと地域文化の創造:岡山名物「きびだんご」の事例を中心に」『旅の文化研究所研究報告』13号、2004
加原奈穂子「未来へ向けた伝統創り:「桃太郎伝説地」岡山の形成」おかやま桃太郎研究会編『桃太郎は今も元気だ』岡山市デジタルミュージアム、2005
山村高淑「日本における戦後高度経済成長期の団体旅行に関する一考察」『旅の文化研究所研究報告』20号、2011
森悟朗「近代における神社参詣と地域社会」国学院大学編『日本文化と神道2』国学院大学、2006
須永徳武「地域産業と商品陳列所の活動」中村隆英、藤井信幸編著『都市化と在来産業』日本経済評論社、2002
国雄行「博覧会時代の開幕」松尾正人編『日本の時代史21:明治維新と文明開化』吉川弘文館、2004
檜山幸夫「国民の戦争動員と「軍国の民」」檜山幸夫編『近代日本の形成と日清戦争雄山閣出版、2001
神田三亀男「広島食文化探訪ノート:紅葉饅頭由来記」『広島民俗』45号、1996
高岡裕之「観光・厚生・旅行」赤澤史朗。北河賢三編著『文化とファシズム日本経済評論社、1993
中野良「大正期日本陸軍の軍事演習:地域社会との関係を中心に」『史学雑誌』114巻5号、2005
山村順次「熱海における温泉観光都市の形成と機能」『東洋研究』22号、1970
濱名篤「海外団体パッケージ・ツアーの普及と土産物店での購買行動」白幡洋三郎編『旅と日本発見』国際日本文化研究センター、2009
菅野剛宏「温泉イメージの変容」『温泉の文化誌:論集温泉学1』岩田書院、2007
井口貢「土産品と観光」谷口智司編著『観光ビジネス論』ミネルヴァ書房、2010
平山昇「明治期東京における「初詣」の形成過程:鉄道と郊外が生み出した参詣行事」『日本歴史』691号、2005
吉田律人「新潟県における兵営設置と地域振興:新発田村松を中心として」『地方史研究』57巻1号、2007