伊豆の長八生誕200年祭実行委員会『伊豆の長八:幕末・明治の空前絶後の鏝絵師』

伊豆の長八: 幕末・明治の空前絶後の鏝絵師

伊豆の長八: 幕末・明治の空前絶後の鏝絵師

 すごいけど、写真じゃすごさが伝わりきらない。塗り額なんか、どの程度の凹凸があるかなんか、実際に目で見ないことには、さっぱり分からない。その点、塑像のほうが、分かりやすくあるな。伊豆の松崎町に行きたくなる。金ないけど。
 名前だけは聞いたことがある、伝説的な鏝絵師の展示会図録。各地に残る作品を集めている。保存が難しそうな漆喰細工が、けっこう残っているものだ。寺院や神社の作品の残存が目立つのは、長八の宗教心の影響が大きいのか、宗教施設が更新されにくいからか。
 やはり、鏝絵作品は、室内装飾としてまとまっているのが良いな。


 ラスト1/4程度は、解説。全体の解説、鏝絵の技術、同時代に著名だったもう一人の鏝絵師村越滄洲について、エックス線による調査、保存修復の各記事から成る。
 著名人とはいえ、「美術」の枠から外れていたためか、その事跡やどういう人物だったかについては、分からないことのほうが多いと。結城素明による著書『伊豆長八』が1938年に出版され、そこに書かれた関係者へのインタビューが、今や数少ない情報であると。あるいは、作品と宗教心の関係など。
 鏝の技術に関しては、下地作りは弟子に任せていたとか、制作スピードが速かったとか、さまざまな技法を意欲的に取り入れていることなどが印象的。
 村越滄洲の記事も興味深い。ほぼ同時代に、こちらは肖像などを制作して、著名だった人物。ただし、作品・史料とも、長八と比べて残りが少ないと。博覧会に積極的に適応し、それを利用して、顧客を集めていたと。ただ、肖像メインだったため、建築物や塗り額など多様な作品を残した長八と比べて、さらに忘れ去られやすかった。生人形の松本喜八郎とほぼ同時代の人物なんだよな。写実的な人物像ということでは、時代的な共通性とか、実際の面識とか、いろいろと気になる。
 ラストは、X線撮影による調査と保存修復の話。X線の調査は、塑像の芯のつくり方にいくつか技法がありそうとか、文献に描かれていたことの裏付けが取れたことなど。保存修復については、塗り額の修復とか、崩落した土壁の修復とか。修復にアクリル樹脂を多用しているけど、長期保存としてはどうなんだろう。美術の保存修復処理というよりは、考古学の保存処理といった印象が強い。化学素材は変質した後、作品に悪影響を与えることが多いのではなかろうか。


 以下、メモ:

 明治十九年(一八八六)四月には、そうした当時の社会的背景を踏まえて、東京壁職業組合が工事業格等級を定めている。それによると、美術一等工(肖像ならびに動物形体が作れること)から同四等工(普通絵・模様塗り・普通型模様塗りができるもの)まで格付けをし、二等工・三等工では立体および平面幾何学・解剖学・画学等の知識まで要求している。一等工・二等工では和・洋二つの文化の伝統様式や形態処理ができる左官彫刻家であることを条件とし、二等工・三等工は広く一般的な教養までを身につけた左官職を示している。p.144-145

 この等級って、どこまで普及したのだろうか。遠安工業補習学校の教育カリキュラムとつながるところがあるのは、海外輸出を目論んだ工芸品という市場環境が共通しているからだろうか。

 内国博は、見世物的な「戯玩」や「遊覧」を否定し、産業振興のために有益たるべきものとして成立した。滄洲は同博に歩み寄りを見せる一方で、それが排除しようとした江戸以来の見世物の本拠地であった浅草という盛り場のなかに居を構え、肖像を中心とする漆喰細工の展示に意欲的に取り組んだ。浅草は当時、前代の趣味を色濃く残す余興、油絵や西洋覗眼鏡などといった舶来物の観場など、旧習と新風の入り混じったまさしく坩堝のような場であった。滄洲の真価が発揮された「真像」とは、じつは、そのような混沌とした遊覧の場のなかにこそ発生し得たものなのであった。p.156

 メモ。

 さらに、富嶽の重要な要素である冠雪部分がほとんど欠損した状態であった。漆喰が欠損した部分はエポキシ樹脂で補填し、精密加工機で整形したのち、アクリル絵の具で彩色した。p.164

 こういうの、漆喰で補修するべきなんじゃなかろうか…