倉本一宏『藤原道長の日常生活』

藤原道長の日常生活 (講談社現代新書)

藤原道長の日常生活 (講談社現代新書)

 明日までに図書館に返却しなければいけないので、急いで読了。
 道長自身の『御堂関白記』を中心に、『権記』『小右記』といった当時の日記類を元に、関白藤原道長の日常世界を再現している。しかし、この時代の自筆の日記が今に伝えられているってのがすごいなあ。
 内容は略歴から始まって、日記に現れる感情表現、政治世界、家族関係、空間、京都の事件、精神生活に分けて叙述される。精神の起伏が激しくて、近くで付き合うのは大変そうだなあと。道長の二人の妻、倫子と明子の子供の待遇のちがい。独自の財政基盤と政治力がある倫子の子供が嫡流とされ、後ろ盾のない明子の子供とは明確に区別されていた状況。それが、後に後三条天皇の即位と摂関政治の後退につながったこと。内裏や道長の邸宅が頻繁に火災(放火)にあっている状況。『殴りあう貴族たち』で紹介されたような貴族の家臣たちの無法な暴力行為の数々。盗賊が横行して、治安(笑)としか言いようがない世界がすごいな。この時代の刑罰の原理が理解できない。呪術的世界と同時に、それと距離を都合によっていい加減に処理しているところも興味深い。まあ、現在の人間と同じで、都合よく解釈して、他者から非難されないようなことは、なあなあで済ませることもあったんだろうな。
 儀礼の都合や、様々な呪術的条件、血縁関係を利用した政治的な暗闘。さらに、そのような争いで権力を手に入れた結果、天皇道長周辺の人物が、呪詛や怨霊に悩まされる様も興味深い。人の「嫉視」が強い力を持つ世界というか。
 あと、この時代に病気になったら、私のような人間は速攻で死にそうだな。つーか、麻酔と抗生物質のない世界で、医療ってどれだけの意義があったんだろうなあ。気休めにしかならないだろうな。そう考えると、加持祈祷ってのは、プラセボ効果という点で合理的だったのかね。


 以下、メモ:

御堂関白記』の最大の特色は、何といっても記主本人の記録した自筆本が残っているという点にある。当然のことながら世界最古の自筆日記であるばかりでなく、日本においても、たとえば『小右記』の最古の写本は平安末期から鎌倉期、『権記』の最古の写本は鎌倉期に書写されたものである。また、『御堂関白記』のつぎに古い自筆日記も、十一世紀末の『水左記』の二巻(承暦元年〈一〇七七〉と永保元年〈一〇八一〉)にまで降る。p.21

 やはり自筆の日記が残っているってのは大きいな。

「女官たちは、必ずしも賜うべき者ばかりではなかったのであるが、事のついでが有って、多く参入した。そこで絹を下賜した」として、あわせて絹三百疋におよぶ禄を下賜している(『御堂関白記』)。これならついでがなくとも参入したくなるというものである。
 これらの例からうかがえるように、急な下賜であっても、たいていはきちんと揃えている。どこか土御門第の内部か近辺に、大量の物品を備蓄している倉があったことは、まちがいなかろう。これについては、牛馬の項でまた触れることとなる。p.89-90

 宮廷や摂関家儀礼に参列した人々に引き出物などを配っている話。こういう贈与で、いろいろな経済が回っていたんだろうな。その次の、儀式用の装束を貸し出していた話や牛馬が必要に応じて道長経由で分配されていた状況なども興味深い。

 これらのうち、曾令文がもたらした唐物の代金三千両が大宰府管内の官物から米で支払われることとなり、金と米の価直(交換レート)をめぐって問題が起こっている。金一両に米一石というのが京の定価であったが、令文は三石に充てるように申請し、長保二年七月十四日にいたって、「二石を定価とせよ」という道長の裁定で決着した(『権記』)。p.98

 この米は最終的にどういう風に処理されたんだろう。日本国内で米を別の物品に換えて、それを持ち帰ったのか。あるいは、米をそのまま大陸に運んだのか。米をそのまま運ぶとすると、六千石は1石180リットルとすると、1000立方メートル強、重量900トン程度になるわけだが。全部持ち帰ったとは考えがたいか。でも、この時代には、そのくらいの船はありそうな気がするし。

 平安宮内裏は桓武天皇延暦十三年(七九四)前後に造営されたが、村上天皇の天徳四年(九六〇)をはじめとして、円融天皇の貞元元年(九七六)、天元三年(九八〇)、天元五年に焼亡している。道長執政期になると焼亡は増加し、一条天皇の長保元年(九九九)、長保三年、寛弘二年(一〇〇五)、三条天皇の長和三年(一〇一四)、長和四年に焼亡した。p.135

 焼けすぎ。群盗の横行といい、この時代、社会が不安定化していたんだろうな。逆に、この時代には、内裏をこれだけの頻度で再建するだけの力が朝廷には存在したとも言えるが。

 長保二年(一〇〇〇)五月に道長が病悩した際にも、厭魅・呪詛がおこなわれたということを、十一日に道長一条天皇に奏上した。「もしかしたら天聴に及んでいるでしょうか」という問いに対する一条の回答は記されていない。行成は、「事は甚だ煩雑である。そこで記さない」と記しているが(『権記』)、いったい一条は何を語ったのであqろうか。p.190

 うーむ、ドロドロしていますな。この時代、呪詛ってのは、精神の中に深く存在したのだろうな。

 しかし、まだ鎮まることはなかった。九月二十八日には内裏が放火されたのである。内裏の東廊の上に、古畳を切り裂いたものに火をつけて投げ入れるというものであった(『御堂関白記』)。なお、内裏の放火というのは、内裏に出入りできる階層の者にしかおこなえない行為であって、単なる物取りの仕業ではない、すぐれて政治的な所為なのである。盗人とは異なり、放火の犯人が捕まったという例もない。p.195-6

 放火犯が捕まっていないというのが、怪しい話で。畳もこの時代には、特権階級の持ち物だろうしな。

「うわなり打」とは、離縁された前妻が後妻に嫌がらせをする習俗である。前妻が憤慨して、親しい女子をかたらって後妻を襲撃し、後妻の方でも親しい女子を集めて防戦に努めたという、まことに恐ろしい習俗である。平安時代からはじまり、戦国時代に盛んになったというが、『小右記』『権記』『御堂関白記』には一例ずつ、ごく初期の例が見える。p.215

 ガクガクブルブル

 道長が仏教・神祇・陰陽道にわたって、膨大な量の宗教行事をおこなっていることは、『御堂関白記』を眺めれば容易に理解されるところである。法華三十講、霊場参詣など、道長が新たな宗教儀礼や行事を創出し、それが後世に受け継がれるようになったという側面も指摘されている。p.219

 へえ。逆に言えば、宗教儀礼の伝統が転換しつつあったという話でもあるな。

 長和二年(一〇一三)には十一月十六日に「奇獣」が紫宸殿に上っている。野猪ということであったが、「この獣は、近頃、内裏の内郭に多くいました」 というのは(『御堂関白記』)、内裏が案外に自然と近かったことを示している。p.237

 草ぼうぼうだったのかね。つーか、そんな目立つ生き物が平気でうろついてたんか。まあ、穢れの問題を考えると、内裏のなかでで狩をする奴もいないだろうから、意外と野生動物の聖域だったのかもな。