桃崎有一郎『平安京はいらなかった:古代の夢を喰らう中世』

 構想・建設の時点で、非常に住みにくい都市であった平安京が、平安時代から中世初頭にかけて、都市として機能的に改変されていった歴史を、紹介する。いかに平安京がダメダメだったかが、縷々述べられ、なるほどといった感じが。京都の回りって、割と最近まで湿地が多かったんだよなあ。現在は、市街地化して、そのあたりが分かりにくくなっているけど。地震や水害への脆弱性は潜在化しているということだよなあ。


 最初は、平安京が、いかに実用性に欠けた都市であるかという話。
 唐や新羅との国際的緊張のもとに、律令という法制のもと、畿内の豪族を在地支配から切り離して、集住させ、中央集権国家を建設することが目論まれた。そのために、徐々に大和盆地から離れた場所に都は移っていった。その集大成としての、平安京
 平安京は、天皇を中心にそこからの距離で決まる位階秩序を地上に可視的に表現した都市であり、また、外交使節や神々に広大な造作を見せつける、天皇の威信を表現する劇場都市であった。
 しかし、それは逆に、居住者の実用性を度外視した都市であった。
 律令の条文にしろ、都の都市プランにしろ、唐のそれとは改変されているところが多々あるが、ローカライズされたものというよりは、当時の国家がかくありたいという所信表明だったということ。


 で、実際に作られた平安京という都市は、ムダに広くて、使いにくかった。街路は、「小路」でも、車が普通に走れるほど。朱雀大路に至っては幅82メートル、長さ4キロ。ほとんど飛行場のノリ。しかも、大路に面する壁に門を作るのは禁止だから、人の目が行届かない巨大空間が各所に存在することになる。
 また、右京や南側の外延部は、そもそも、街路の建設もされず、未完成のまま、桓武天皇は建設を諦めた。
 そもそも、平安京のプランが人口や地形に対し過大で、右京や南側は湿地帯などで、ほとんどが未利用だった。左京の四条以北は過密な都市となっていたが、その他の部分は過疎地で、耕地としての利用も難しかった。院政期に入ると、左京の八条が王家や平家などによって開発されるようになるが、右京側はむしろ、耕地化が進んだ。


 さらに、大内裏も、日本国の政務や儀礼の場として、過大であり、政務は朝堂院や大極殿で行われる設定だったのが、だんだんと天皇の生活の場である内裏、その私的空間側に入り込んでいく。日本国の当時の国力では、そもそも、その程度の空間で事足りた。様々な建物が立ち並ぶ大内裏は、持て余されることになる。


 ラストの1/3ほどは、そのような現実の国力に比べて過剰投資が行われた平安京を、現実の必要に合わせて、改造していく過程。
 摂関期には、廃墟化していた施設の礎石を、寺院の礎石に転用したり、街路の耕地や宅地化の進行。さらに、内裏すら大きすぎて、里内裏の方が快適ということで、里内裏滞在の期間が長くなり、院政期には、無用のもの扱いされるようになる。鴨川の東、白川に六勝寺や広大な宮殿、法勝寺の八角九重塔のようなモニュメントが建設され、旧時代のモニュメントは必要なくなった。
 その後、武家時代の直前に、信西による改革で、大内裏の周囲の垣と朝堂院のみが、いわば儀礼用の書割として維持され、残りは原野化が進んだ。その原野は武士の訓練のための馬場や戦場となり、豊臣秀吉聚楽第を建設し、消滅するまで、維持された。
 里内裏も、だんだんと縮小し、室町時代には一町四方程度に縮小。それで事足りた。
 過大な施設は、中世を通じて、適性サイズに縮小されていったが、一方で、京都は劇場都市であり続けた、と。


 平安時代後期の、天皇が里内裏を転々とする時代って、ある種、律令時代より前の歴代遷宮の時代のリバイバルだなあと感じた。
 あと、内裏の焼失が、円融や一条天皇の時代に頻繁に起きているけど、これって政治的サボタージュなのか、内裏を運営する人々の規律が低下していたのか、どっちなんだろう。