倉本一宏『藤原氏:権力中枢の一族』

藤原氏―権力中枢の一族 (中公新書)

藤原氏―権力中枢の一族 (中公新書)

 情報量が多すぎて、どうも、消化しきれない。
 古代を通じて、天皇家の「ミウチ」として国家の政治中枢的な位置を維持してきた一族の歴史。文武や聖武を確実に天皇にしたい持統天皇と自己の子孫の繁栄を図った藤原不比等の合作が、日本の蔭位制である、と。それによって、それ以前の有力氏族たる蘇我、大友などは、律令国家の枠組みの中で議政官を出しにくくなっていく。


 中大兄皇子の側近としての中臣鎌足の「功業」。ともに最新の統治技術を学びつつ、自己に権力を集中させて国際状況を乗り越えようとした蘇我入鹿、それに対し官僚制国家を建設しようとした中大兄皇子中臣鎌足の路線対立が乙巳の変の原因である。そして、この新政権の中核を占めた鎌足の子孫が、天皇家と結びつき、権力を集中させていく。
 律令制度の設計を主導した藤原不比等。さらに、その子四兄弟から発する藤原四家とその子孫たちが、歴代天皇との密接な血縁関係の構築に腐心してきたか。平安時代初頭までは、他の氏族との対立。そして、政治中枢がほぼ藤原氏で占められた後は、南家・北家・式家・京家の覇権争い。最初から影が薄い京家。そして、南家が疎外され、後宮に力を持つ式家と議政官を多数擁する北家の争いは、最終的に冬嗣・良房・基経の系譜に、権力が集中していく形で決着。道長を頂点とする摂関家に収斂。
 しかし、その摂関家も、道長の息子頼通の時代には、外戚になれず、陰が差す。縁戚関係の薄い天皇が、上皇や院となって政治を差配し、摂関家は政治の中核から外れていくことになる。その後も、「摂関家」などとして公卿の中枢を占め続けるが、政治的意思決定の中枢からは離れたままになる。


 また、藤原氏官人が激増し、政治中枢から外された系統は、中下級官人として自己の家系の維持を図る。学問や故実、様々な技芸をもって、家を維持しようとする。あるいは、地方官として富を得る家。地方に土着して武士化する家など。一方で、没落して消え去る家系も多数あった、と。なかには、院近臣として公卿への復帰を遂げた家系もある、と。


 奈良時代前半に、恒常的に「太上天皇」が存在し、天皇家を代表していたって、古代末の院政と似たような感じだな。そっちの方が安定するのかね。
 あとは、順調に息子に受け継がれたわけではなく、それぞれの皇統で争いがあったのだな、と。


 65ページ以下の、持統から聖武への皇統と不比等の関係を踏まえて、神話の天照からニニギの関係を作ったという話が興味深い。何となく、神話が先と考えてしまうが、記紀神話ってこのころに編纂されたものなんだよなあ。

 平城としてじゃ、無駄を省き、官僚組織を効率化することを目指したのであろう。しかしながら、天皇は支配者層全体の利害を体現するために存在する。このような「やる気のあり過ぎる天皇」は、概して貴族社会から浮き上がり、やがて悲惨な末路をたどることになる。p.151-2

 行政改革の難しさ。そりゃ、ポストが減ったら困る人は多いだろうしな。しかも、この時代だと、ポストがなくなると困る人は多そうだし。
 天皇にしろ、摂関にしろ、結局は支配層全体の利害を代表する人間でしかないと。