チェスター・リーブス『世界が賞賛した日本の町の秘密』

世界が賞賛した日本の町の秘密 (新書y)

世界が賞賛した日本の町の秘密 (新書y)

 ぱらっとめくって見て、ママチャリを支持する立場の書物だったので、借りてみた。
 近距離用移動手段としてのママチャリが、廉価であり、また空間効率、エネルギー、積載能力からも非常に能率の高い乗り物であること。そのような自転車がモビリティの中核であり続けられる理由として、「自転車町内」の存在が大きいと指摘する。日本の都市の生活道路が幅が狭く、自動車が自由に動けない空間であること。また、買い物や行政手続きなどのインフラが密に存在する。ここから、多様性に満ちた都市社会が現われる。
 また、駐輪場は駐車場と比べて非常に空間効率が高く、公共交通機関との接続に便利であること。公共交通機関が密に張り巡らされ、都市から、その外へもシームレスに移動できる国は実は珍しいという指摘も興味深い。
 ママチャリ、自転車町内、公共交通機関の3点セットを高く評価している。確かに、これらが自動車社会を抑止した結果、ゲーテッドシティみたいなものが出現しにくく、見た目社会的格差が現われにくいようになっているのかも。


 後半は、ママチャリ文化、自転車町内、公共交通機関網が存続の危機にある状況を指摘。
 最近、あまり目立たなくなったけどスポーツサイクルを賞賛して、ママチャリを蔑視する言説は良く見かける。あとは、自転車がどこを走るべきかの問題。駐輪場に関しては、ラック式が効率悪いという指摘やレンタサイクルも空間効率の点で問題ありと。実際、デッドスペースの駐輪場としての利用は悪いことではないと思うのだが。
 自転車町内の存続問題に関しては、ジェイコブスを引いてきているが、まあ基本的な感じか。森ビルのサイトにあった、狭い街路の自転車町内は「遅れたもの」で一から作り直すべきという主張に対して、アメリカでの「都市再生」への違和感を表明する。民家が撤去され駐車場に転換される状況や高層住宅の侵食が、自転車町内の危機として指摘される。
 最後は公共交通機関の危険。


 正直、ママチャリ文化を褒めすぎなところがある。例えば、自転車泥棒とそれに伴う放置自転車の問題。あるいは、必ずしもマナーが良くない駐輪場での駐輪。ママチャリ文化にも、問題は山積み。
 ただ、既に実現しているコンパクトシティーを無思慮に破壊することへの憂慮は共有するかな。


 以下、メモ:

 最近のツーリング用の自転車やマウンテンバイクは、コンパクトフレームになっています。一方、ステップスルー式は、一九世紀の終わりごろから存在し、ドレスを着ている女性でも乗り降りが容易であるようにデザインされたもので、「男性用」のダイヤモンドフレームに対して、「女子もしくは女性用」として捉えられていました。
 オランダやデンマークのように日常的に自転車に乗る国々では、現在でも女性は「女性用の自転車」、男性は「男性用の自転車」を好みます、それとは対照的に、日本のママチャリ文化の決定的な特徴は、男女ともとりたてて意識しないで、「女性用の自転車」であるステップスルー式の自転車を使っていることです(ステップスルー式のフレームは、少なくとも英語では性的にはニュートラルなのですが、最近の欧米における自転車促進関連の文献では、「女性用の自転車フレーム」として使われることが増えています)。p.18

 欧米では、自転車のフレームに性差があると。ザッと検索してみると、日本でもそれをそのまま受け売って、再生産しているサイトがあるな。まあ、日本でも「ママチャリ」の名称が示すように、女性向けの含意はあるわけだが、「シティサイクル」や「軽快車」といった名前で、中性化をはかっている側面が。主婦層向けの自転車が曲線を多用しているのに対し、学生の通学向けなんかのシティサイクルは直線的デザインと、顧客層ごとにデザインを変えている。

 交差点に設置されている安全ミラーは、歩行者や自転車交通の流れを、さらに円滑にします。そして、当然安全に寄与しています。電信柱は景観的には魅力が乏しいですが、自転車や歩行者にとっては、乱暴な運転をする車に対する、ときどき現われる避難所のような役割を果たしています(おそらく設置者は意図していないでしょうが)。p.32

 あー、これは確かに。電柱で、走行スペースが作られることはあるな。

 私の母国であるアメリカでは、歩行者と自転車走行者が橋を渡る方法は、一部の例外(ニューヨークの有名なブルックリン・ブリッジや、シアトルのレークワシントンを越えるホーマー・ハドレイ・ブリッジ)を除けば、非常に限られています。自動車以外の手段で幹線道路を通行することはほぼ不可能です。これは、二〇世紀半ばごろからつくられた交通インフラが、つい最近まで自動車のみを念頭においてデザインされてきたからです。私にとっては、「公共利用の階段の自転車用ランプ」という簡単なものであっても、思いやりのある施設を発見するのはとても特別なことなのです。p.54

 まあ、幹線道路のルート設定そのものが、自転車に優しくないというのはよくある話だが…

 その一つは、当たり前ですが、より多くの駐輪場をつくることです。さらにいえば、現在は駐輪禁止であっても、とくに他人に迷惑をかけないような場所であれば、駐輪できるようにすることです。そうすることで、ほとんどお金をかけずに、より多くの駐輪場をつくることができるのではないでしょうか。p.109

 まあ、そういう管理しにくい自転車駐輪場の問題は、盗難とそれに伴う放置自転車が蓄積していってしまうことなんだよな。ボロボロになった自転車がいつまでも残っているなんて、よくあるし。あと、どうしても、はみ出して駐輪する人間が出てくること。外国人から見たほど、日本人の駐輪マナーは良くないんだよな…
 私自身、そういう形での駐輪スペースの拡大は望ましいことだと思うのだが。

 あるオランダ人のブロガーは、ウェブサイト「It's Tokyo Time!」(二〇〇八年一月)で、もう一つの理由をあげています。国ごとに道のどちら側を走行するかが異なることは混乱を招きますが、彼はルールをしっかりと守ったらたいへん危険な目にあったかもしれない体験をしたというのです。彼が指定された自転車レーンを走行していたところ、それが道路から直接、地下鉄の階段へとつながっていたことがあったというのです。p.139

 まあ、自転車関係の交通規定は、実際に守ったらとっても安全に走れる状況じゃないものな。

 このような、東京の都市空間の特徴が大きく変貌する背景をより深く探るために、役に立つウェブサイトを私は見つけました。それは「ミッド・トウキョウ・マップス」と呼ばれる森ビルのウェブサイトです。森ビルは、東京の高層ビルである六本木ヒルズや中国で最も高いビルである上海のワールド・フィナンシャル・センターといったプロジェクトで知られる、不動産デベロッパーです。
 このウェブサイトでは将来の東京、そして日本の都市が総じてどうあるべきかについて、主張が述べられています。その論点の要約を以下に示します。
 日本の都市、とくにその首都である東京は、戸建住宅と小さなビルであふれ、災害に脆弱な木造建築物も存在していて、働く場所としても生活する場所としても不適切であり、しかも細い道によって分類される小さな区画割りがなされ、都市としては失敗であると指摘しています。そして、このような「細い道によって分類される小さな区画割り」を壊して、広幅員で、より効率的な道路、そして公園のような大規模なオープンスオペースのある「大区画割り」へと転換させることを提案しています。
 それらの新しく整地された、巨大なスケールで区画割りされた地区には、ミックスド・ユース(訳者注:土地利用を混在させた都市開発のモデルで、商業、住宅、業務などの多様な空間利用が近接して展開されている)の高層ビルが、最新の耐震技術に則り、一〇〇年はもつように建設され、その周辺は緑によって囲まれるべきだと主張しています。p.147-8

 六本木ヒルズが、開発以前より多様な空間を展開できているとか、信じがたいのだが。ミックスド・ユースが実現している場に、画一的空間を押し付けるような行為だよなあ。むしろ、技術ってのは既存の町割り、建物に、低コストで付加できるものを開発していくべきではないだろうか。

 狭い道路は自動車交通を抑制するのにも効果があります。それは「自転車の買い物カゴ」のサイズのなかで生活が足りることを可能にします。道路を拡幅し、歩行者と自転車から安全に走行できる空間を取り上げ、自動車が高速で走行できるようにすることにかけては世界一であるアメリカにおいてでさえも、住宅地内では自動車の走行速度を抑えるような施策(交通静穏化と呼ばれています)がいくつか試みられています。日本は交通静穏化にかけては、そもそも住宅地内の街路の多くが狭いために、アメリカのはるか先を行っているといえるでしょう。p.173-4

 まあ、道路を広くして、その後静穏化の施策を行ったほうが金が回るからねえ。

 また、狭い道路は都市におけるヒート・アイランド現象を緩和します。京都大学大阪大学環境工学の技術者グループによる研究では、日本の道路の熱環境をいくつかの幅の異なる道路で測定した結果、「夏季における道路の熱環境は、狭い道路のほうが広い幅の道路より歩行者にとって快適である」ことを示している。p.174

 まあ、そうじゃろう。元ネタの研究を知りたいところだ。

 自動車がコミュニティとそこで生活する人々に及ぼす影響は、物理的なものだけではありません。社会的な影響も甚大です。私の母国の多くのコミュニティのように、完全に自動車に依存してしまうと、人々は自動車の奴隷となってしまいます。
 たとえば、アメリカ人の両親たちは、遠くにある学校まで子どもを自動車で送り迎えしなければなりません。さらには自動車での送り迎えができるよう「遊ぶ約束日」と呼ばれる、子どもがほかの子供たちと遊べるような日を決めていたりします。
 それに対して、鉄道駅にほど近い自転車町内に住む日本の両親たちは、このような面倒くさい子どもたちへの交通サービス提供という、時間がかかる責任から解放されています。子どもたちは歩いて、または自転車で、もしくは公共交通を利用して学校へ行き、友達と遊ぶことができるからです。p.194-5

 子供が自由に動けないってのは、不健全な世界だと思う。自動車中心の社会では、交通弱者はモビリティから排除されると。