小沢信男『東京骨灰紀行』

東京骨灰紀行

東京骨灰紀行

東京骨灰紀行 (ちくま文庫)

東京骨灰紀行 (ちくま文庫)

 東京の死に関連するポイントを巡り歩いた本。大都市は、それだけ大量死の危険が高いと。
 両国の回向院を皮切りに、日本橋の牢屋敷、千住の吉原遊女の投げ込み寺や小塚原の仕置場、築地の本願寺周りの子院跡、谷中墓地、多磨墓地、生死が交錯する盛り場新宿、そして両国に戻ってきて被服廠跡地。東京の地理感覚がないから、驚いたけど、被服廠跡地って、両国の国技館のすぐ北だったんだな。そして、大都市は死体の上に立っている現実。人口が多ければ、それだけ死ぬ人間も増える道理だしな。
 ぶらぶらと歩きながら、思い出話を交えて、軽妙に語っている風だけに読みやすいが、よく考えるとなかなかエグい話だ。明暦の大火、安政地震関東大震災東京大空襲と死屍累々の大量死が、何度も起きている。さらに徳川時代を通じて、大量に処刑が行なわれた仕置場や牢屋敷。貧困層をまとめて葬った養育院の埋葬施設や遊女がまとめて葬られた寺。都市の周縁部には、「死」の気配が濃厚に漂う。
 あと、彰義隊の話がよく出てくるのも興味深い。新政府が、彰義隊の戦死者の遺体を回収埋葬することを許さなかったという。そういう貧しい精神性は近代を通じて、あちこちに表出しているように思えるな。関東大震災の時の朝鮮人虐殺、そして第二次世界大戦時の自国の民間人に対する異様なまでの冷酷さ。一貫しているし、実は戦後の日本国憲法体制でも、それは変わっていないように見える。
 東京が死体の上に築かれていることはわかるが、だとするともっと古くからの都市である京都はどうであったのか。さらに大阪は。といろいろと気になるな。熊本でも、遺体をどう処理したのだろうかとか。京都に関しては、古代には一般人はその辺に遺棄されていたわけだから、死体の上に築かれた都市というのは一緒だけど。


 以下、メモ:

 この大惨事を絵入りで記録した『むさしあぶみ』という草紙があって、一節をあげれば、当時は日本橋横山町にあった西本願寺の門前広場へ、われもわれもと家財を持ちだし一休みしていると「辻風おびただしく吹まきて、当寺の本堂より始めて、数ヶ所の寺々同時にどっと焼けたち、山の如く積みあげたる道ぐに火もえ付しかば集まりゐたりし諸人あはてふためき命をたすからんとて井のもとに飛入溝の中に逃げ入ける程に、下なるは水におぼれ中なるは友におされ、上なるは火に焼かれてここにて死すもの四百五十余人なり。」p.11

 そこへがらりと大地震。あちこちの横丁から、住民各位が家財道具をかつぎだす。ご当地は明治このかた、燐寸・メリヤス・皮革・ゴム・石鹸などなど文明開化の百貨製造の工業地となり、働き者の家族たちが密集していた。被服廠跡こそはかっこうの避難場所。警官たちも声をからして誘導し、さしもの広場が家財ごと満員になってしまった。その家財の山が、いっせいに燃えあがる事態となる。p.220

 関東大震災での被服廠跡と似たような悲劇が、明暦の大火災でも起こっていたのだな。火災の時には、避難場所に延焼しそうなものを持ち込ませないようにする必要があると。

 奥州道中筋のここと、東海道筋の錫ヶ森と、江戸の出入り口に、こういう装置をそなえた。この二ヵ所で処刑した数が、約二百二十年間に、うそかほんとか二十万人。ここだけで二十万人という説もあるが、ともあれ日に日に二、三人ずつは首を斬ったり磔にしていた勘定になります。静軒は、現在進行形のドキュメントとして右のように書いた。つづけて「去歳浄土寺に隣して更に法華寺をしょうす。乃ち都人繁賽、原野観を改め今復た荒涼ならざるなり」。p.69

 首切り地蔵さまは、ここへ移った明治このかた大正・昭和戦前と、ひときわ高く界隈をみはらしていた。やがて戦後の昭和三十年代に、国鉄南千住駅が高架に改まり、営団地下鉄日比谷線南千住駅が、より高い高架線で開通する。この工事中に骨がいっぱい掘りだされた。そのうずたかい骨灰の山を、首切り地蔵がみおろしている写真が、瀧川政次郎『日本行刑史』(青蛙房刊)の一一三頁にのっています。昭和三十五年(一九六〇)六月の撮影当寺も、地蔵と題目塔の配置はいまに変わらないが、なんと界隈のひろいこと。改築以前の回向院の瓦屋根も見えるのでした。
 貨物線は地べたを走り、線路がふえるいっぽうで、魔の大踏切となってしまった。ついに昭和四十七年(一九七二)に立体交差と、道幅拡張の工事開始。都道464号線(コツ通り)が貨物線の下をくぐるや、またまたどっと骨がでた。
 回向院も境内を削られ、現在のビルに改築して昭和四十九年に落慶したが、その削られた地所から樽詰めの頭蓋骨が二百ほども掘りだされた。四尺高い板にのった獄門首たちにちがいない。地の下には仕置場がまだ眠っていた。
 そして平成十年(一九九八)から、未来をひらく常磐新線つくばエクスプレスの工事開始。ここらは地下トンネルでくぐり抜けたからたまらない。平成十四年の中間報告では、約一三〇平方メートルのA区からでた頭蓋骨が二百点強。四肢骨千七百点。約三二平方メートルのB区からは頭蓋骨だけで六十点。他は押して知るべし。いまでこそ史蹟として調査記録をするけれども、それも限定区間ですからね。p.72-3

 うーん、すごい数だ。で、鉄道工事なんかで掘り返すと、人骨がざくざくと出てくることになる。そういえば、東京の土地勘がないから、地図を見ていると、この小塚原の回向院の墓地に面して旅館がある。刑場のお隣で宿泊というのも、なかなか乙な感じだな。

 旧本館は、廊下の壁や床に奇妙なレリーフがあったり、ぜんたいに見飽きない。通院のついでに、礼拝堂や屋上や、あちこち拝見しました。外来診療は、私をふくめて金持ちとはかぎらぬ連中でにぎわっていて、戦前にはなかった国民医療保険制度があればこそ。良きかな戦後レジーム(制度)は。p.65

 それなのに、戦前レジームを「取り戻したい」連中がいるんだよな…

 高度成長期、この町のビル化が競ってすすんだ。いざ地下を掘ると、当たりはずれが生じた。なにごともないところと、ざくざくお骨がでるところと。子院の引っ越しは、つまり位牌の墓石を運んだので、土葬時代の地下は、大地に抱かれて自然に帰しているのであった。ところがビルは地下室を造るからね。造らぬまでも掘り固めるからね。そこが墓所跡なら大当たり。なにしろ築地で、もともとは海につき、水気に漬かって空気に触れず、保存きわめて良好のお棺もでた。蓋をあけると妙齢の美女が振袖のまま眠っていて、ものに動じぬ仕事師もギャッと叫んで遁走したとか、聞きつけてドッとむらがったとか、多少は尾鰭のついた実話が、この町のどこかでいまも語り継がれているはずです。現代の民話。p.112

 築地本願寺周囲の子院は、関東大震災後の区画整理で移転したが、墓地は地下までは掘り返していない。結果、ビル建築などで掘り返すと、場所によっては遺体ざくざくと…

 養育院の足跡をたどりなおそう。『近代日本総合年表』の明治五年十一月一五日の項に「東京府、車善七に命じ乞食二四〇人を旧加賀藩邸空長屋に収容し、のち浅草溜に移す(東京市養育院の初め)」とあります。ロシアの大公が来日するので、体面上にわかの狩込みだったとか。なんのことはないね。p.143

 いまでも、イベントごとでは、やることは変わらないようだけど。


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