「天覧台由来記」碑

 敷地南のグラウンドを眺め渡すことができる、小さな築山の麓に立っている石碑。皇族が閲兵した見晴台だったようだ。この場所は、昭和15年からの5年間だけ陸軍幼年学校敷地だったため、天皇自身は来なかったようだな。
 しかし、こうしてみると、陸上自衛隊と旧軍の関係って、けっこう強いものがありそうだな。
 この写真でも、何人か写りこんでいるけど、この日はどこもかしこもお昼を食べる人々でいっぱいで。とっても、敷地内の石碑を撮れる状況ではなかった。




碑文

  天覧台由来記
 「陸軍幼年学校生徒ハ将来国軍ノ�峭幹トナ
ルベキモノナリ」との 明治天皇の大御心の
もとに、仙台、東京、名古屋、大阪、広島と
共に、明治三十年、熊本城内に開校された熊
本陸軍地方幼年学校は、軍縮のため昭和二年
三月、第二十九期生を以て一時廃校の憂目に
あったが、東亜の風雲急を告げる昭和十四年
第四十三期生を以て熊本陸軍幼年学校として
復活し、翌年四月第四十四期生入校と同時に
清水台なる現在地に移転した。
 昭和二十年八月十五日終戦を迎え、第四十
九期生を最後にその命運は尽きたが、この間
朝香宮鳩彦王殿下 李王垠殿下 梨本宮守正
王殿下の台臨と 陛下の侍従武官の御○遣を
賜わり、親しく本台上より生徒の練武状況の
視察を頂いた。名付けて「天覧台」と称する
所以である。周囲のはい松は第四十四期生一
父兄の寄贈によるものである。
 昭和二十年八月二十八日、本台上において
御真影、勅諭、勅語、雄健神社及び武道場
御神体、記念室の同窓戦死者遺品、本部玄関
上の菊の御紋章が、職員生徒一同の「国家」
と「海行かば」斉唱の中に奉焼され、万斛の
涙のうちに、その光輝ある歴史を閉じた。
 本天覧台は、熊幼関係者には永遠に忘るる
ことのできない心の記念碑であり、茲に開校
八十周年を期してその由来を述べる。
  昭和五十二年九月  熊 幼 会