研究室に行ってみた。国立歴史民俗博物館 日本の葬儀と死生観 山田慎也 ナショナルジオグラフィック日本版サイト

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第1回 どうなる? 日本の「死」と葬儀 ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 地域による、死者とのスタンスの違い。転生して抜け殻でしかないインド。それほどこだわりがないけど、終末の復活のために土葬なキリスト教。来世に必要なものをもたせようとする儒教圏の中国やベトナム。日本は、死者の存在感が大きい方と。
 やはり、地域社会における葬儀から、葬儀の個人化という流れがあるのだな。

第2回 日本の葬儀はなぜ、どのように変わったのか ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 転換期の90年代に、地域の葬儀屋でフィールドワークを長期に行えたことが大きかったと。儀礼を、その意味も含めて地域が完全に仕切っていて、葬儀屋は物品を貸し出すだけの状況。そこから、葬儀屋が儀礼とその知識も含めて、完全に仕切る姿へ。
 葬式を仕切っていた世代が全員死んでしまうと、儀礼の伝承ができなくなる。喪主が地域の外に出ているので、地域の人々とのコミュニケーションがなくなる。結果、近所の人々は関与に躊躇する。喪主は業者に依存するようになる。
 一気に、地縁的な葬儀が崩壊して、都市的な葬儀に。

第3回 葬儀の変容で失われる「伝統」とは何なのか ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 社会の死にたいする感覚の変容。死を遠ざける流れ。いったん、家に搬送していたのが、直接斎場へ。

「あらためて言われると、難しいなと思うんですけど、要するに、死者をどこで受けとめていくのかというのが、やはり急速に家族化というか、個人化していっていると思います」

 死の知らせや葬儀への参列が、社会的関係の継続を再確認するものだった。あるいは、葬式があると知ったら行くものだった。社会関係の消失か。
 そもそも、経済や開発の論理で家の消失を一貫して推進してきた自民党が、イデオロギーレベルでは家にこだわるねじれが、おもしろいというか、気持ち悪いというか。「家」というブラックボックスに社会問題を全部蹴たくり込んでいるというか。
 社葬の消失。まあ、バブル後の企業は、葬儀をやるほど求心力ないよね。

第4回 受け皿が消えゆく日本の「死」とその行方 ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 社会の孤立化。家族・親族ネットワークの解体とともに、さまざまな「保証」ができなくなり、困る人が出ている。「受け皿」の消失。
 「亡くなる前の人が、自分を悼んでくれる人たちのことをイメージできるかどうか」ね。なるほど。
 遺された者にとっては、儀礼が、精神的なバランスの回復に重要と。
 過去の葬儀のあり方を、再構成する必要がある。また、葬儀というのは、死んだあとの問題ではなく、生前からの社会関係の問題でもあると。人間同士のつながりの再構成とも言える。ここに、葬儀と福祉の接点が出てくるともいえるな。
 弔い上げの効用とか。社会儀礼のマニュアルの拡大、メンタリティの継続とか。

第5回 人はなぜ遺影を飾るのか、動画は遺影になるか ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 山田教授の転機。難聴になって、葬儀のフィールドワークを諦めて、遺影の形成の問題に軸足を移す。
 そういえば、農家なんかだと、座敷にたくさんの遺影がかけてあったりするよなあ。
 葬儀写真集… 壮健時から、だんだん衰弱していく姿、最後は解剖まで収録って。葬儀絵巻から、写真を使ったものへ。そこで性格が変わっていく。生きている時の記録が、死者を見つめるものに。
 動画が遺影にならないってのも、おもしろいな。

第6回 心に残った「死」の展示について ナショナルジオグラフィック日本版サイト

 展示の紹介。消費社会と民俗。水子供養が医療者主導だったこと。胎児の超音波エコーが「遺影」になる。葬列が社会関係を可視化するツールであったこと。供養絵額の変遷に見るまなざしの変化。骨壷用トートバッグ…
 行列ってのは、葬列に限らず、社会関係を可視化するツールだよな。ルネサンスの祝祭の行列とか。とはいえ、現在のお店の行列が、何を可視化しているかは、ちょっと思いつかないけどw