天文学者たちの江戸時代: 暦・宇宙観の大転換 (ちくま新書)
- 作者: 嘉数次人
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/07/05
- メディア: 新書
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取り上げられるのは、教科書にものるような有名人。
最初は、貞享暦を編纂した渋川春海。中国の天文学を咀嚼し、9800年ぶりの改暦を成し遂げた。保科正之など幕府有力者の支援、そして山崎闇斎門下の交流の元に成し遂げられた。また、伝統的な中国天文学にならって、天文占やそのための星座の研究も行っている。一方で、西洋天文学に関しては、入門書的なものしか入手できず、半信半疑にとどまった。
続いては、徳川吉宗によるトップダウンの西洋天文学導入と西洋天文学にもとづいた暦作成の試み。観測装置も製作させて、入れ込むが、これは、機が熟していなくて失敗する。
しかし、蘭書輸入の緩和は、着実に芽を出す。大阪の浅田剛立とその一門は、漢訳天文書の咀嚼を通じ、その学問レベルを上げていく。特に、高橋至時と間重富の二人の高弟は、幕府の天文方に採用され、寛政暦への改暦を成功させる。また、オランダから輸入された天文書の研究や伊能忠敬の日本測量など、業務が広がる。伊能忠敬の測量は、最初は、子午線一度の長さを知り、地球の大きさを知ろうとする試みだったと。高橋至時は、41歳の若さで死亡し、研究は息子の高橋景保と盟友の間重富に託されることになる。
オランダ語文献の翻訳や伊能忠敬の測量、彗星の研究など、天文方の業務は拡大する。しかし、景保は、シーボルト事件で死罪となり、弟で渋川家に養子に入った景佑が中心となって研究を推進することになる。天保の改暦は、彼の成果。
同時に、幕末の海外情勢の緊迫の中、ヨーロッパ諸国の情報を収集する蘭書翻訳の業務が重くなってくる。組織の生き残りをかけて、航海術の研究に手を出すなどの活動を行う。しかし、最終的には幕府の消滅とともに、データともども引き継がれることもなく消滅してしまう。なんか、この辺も、明治政府の蒙昧さだな。観測データも、浅草天文台廃止のときに廃棄されてしまったと。今でも、天文方のデータを知ることができるのは、整理してまとめた本が残ったからと。
天文学者の間では、地動説が受け入れられつつ、公式の暦書などではそれを全面的に表明できなかったと言う話も興味深い。日本では、地動説は割りとあっさり受け入れられたと思っていたが、抵抗はあったのだな。