『歴史群像』2017/12号

歴史群像 2017年 12 月号 [雑誌]

歴史群像 2017年 12 月号 [雑誌]

 これで、とりあえず、読了分は残り一冊に。なんか、感想書くのに、時間がかかるなあ。

有坂純「縦横無尽!世界戦史:カタパルトVol.3」

 中世の、錘の重量で砲弾を飛ばすトラクション式カタパルトの話。人力から、人力と錘併用、最後にカウンターウェイト式へと変化していく。強固に防備された都市を撃破できる戦略兵器として、個々のカタパルトに固有名がつけられた。そりゃ、600人からの人員を要するハイブリッド式は、名前がつくよなあ。それを、上回る超兵器のカウンターウェイト式。射程も、命中率も向上。250キロとか、100キロの石弾が飛んでくるとなれば、そりゃ、積みあげ式の城壁は壊れるだろうな。それに対し、塔で相互防御する新しい形式の城が出現。
 なんか、十字軍戦争での運用事例が多いけど、中世のヨーロッパ域内では、どの程度運用されたのだろうか。

山上至人「激震!シャクシャインの戦い」

 シャクシャインに率いられたアイヌ勢力と松前藩の戦いを、国際情勢なども含めて俯瞰する。現在のロシア沿海州あたりと蝦夷情勢は連動していた。それの「押さえ」とされた松前藩は、アイヌ人の交易活動を圧迫していく。また、アイヌ側も、1449年の土木の変以降、明との交易が停滞し、和人との交易に傾斜せざるを得なかった。
 松前藩による貿易統制が、アイヌ人の内部対立を拡大し、複数のチャシやコタンを押さえる有力首長の出現を促した。また、和人の流入や経済的負担の転嫁は、アイヌの不満を強めた。このような背景の中で、シャクシャインは立ち上がる。しかし、反松前で立ち上がったアイヌは、基本的には太平洋岸の西側や渡島半島の勢力に留まった。
 しかし、数百人レベルの戦力の戦いか。で、鉄砲を持つ松前側を押しきれなかった。
 この敗北が、アイヌの和人への従属を促進し、また、ロシア人の進出の中で自国民化が推進されるようになっていく。

古峰文三「沈頭鋲:小さな部品の偉大な物語」

 機体の表面を平滑にして、速力を上げる沈頭鋲のお話。アメリカでは、民間機で先に導入されたとか、規格の標準化は日本が先行したとか。日本は、鋲の打ち込みとディンプル形成を同時に行い、効率的なダグラス・システムを導入。多くの軍用機で導入された。
 アメリカでは、NACAによる層流翼の精緻な研究から、ディンプルの盛り上がりを削るNACAリベットが考案された。しかし、実際に、層流翼が効果を発揮するためには、それでは足りなかった。結局、P-51は、層流翼フィーバーによって、リベットの表面切削とパテ研磨仕上げという膨大な手間をかけて生産された。つーか、そこまで手間をかけて、15000機も作っているのが、アメリカ脅威の生産力としか言いようがないなあ…
関連:雷電から始まる層流翼と沈頭鋲にまつわるアメリカと日本のエピソードについて - Togetter

白石光「JV44:第三帝国滅亡の空を舞った“ガーランド・サーカス”」

 有名なMe262ジェット戦闘機部隊のお話。小うるさいガーランドを敬して遠ざけるための手段だったのかね。そこに、「航空団指令の反乱」に加わった士官が集る。
 しかし、1945年4月から本格稼動って、終わり間際での滑り込み戦力化だったのだな。ジェット機のスピードは圧倒的だが、離着陸時が弱くて、損害を出しまくった。そのために、援護の部隊を作った話など。

淺川道夫「図解 品川台場

 お台場の台場の解説。ペリー来航に備えて、江戸正面に急遽設置された砲台群。オランダの築城技術書を参照して、相互に火力支援ができるように設計された。この時代は、大仰角の砲弾がないから、こういう砲台でよかったんだな。
 しかし、基礎の杭といい、埋め立ての土砂といい、お金かかっただろうなあ。特に、後者はどこから運んできたのやら。

古峰文三「日の丸の翼:海軍九〇式艦上戦闘機

 最初から、戦闘機はエンジン性能が大事だったのだな。
 第一次上海事変の戦訓から、全金属製に転換が決まっていて、出現当初から旧式化。しかし、操縦性が良かったため将来の礎となった。1938年からは、練習機として再生産されている。一方で、更新の遅れが、戦闘機無用論を生み出した、と。

白石光「銘艦ヒストリア:A級水雷艇駆逐艦

 19世紀末に導入された、駆逐艦の始祖。水雷艇を撃退し、自分が魚雷攻撃を行える、汎用性を持つ艦。この時代の、艦首部がタートルバックの駆逐艦、好き。

大塚好古「『妙高』型重巡激闘録」

 個人的には、重巡では妙高型が一番好き。
 最初の一万トン型重巡だけに、いろいろと不具合があって、二度の改装が行われた。居住性が悪いとか、弾薬の取り回しがとか、いろいろあったようだ。
 スラバヤ沖、アッツ島沖、ブーゲンビル島沖の各海戦に従事。その後、レイテ沖海戦にそろって参加、生き延びる。しかし、その後は、フィリピン近辺での空襲、シンガポール近辺での水上戦や潜水艦攻撃で、次々と失われ、最後は大破航行不能の状態だった妙高だけが残った。

山崎雅弘「オーストラリアの第二次大戦」

 第二次世界大戦の勃発にともなって、急激に増員されたオーストラリア軍は、地中海でロンメルのアフリカ軍団やギリシャクレタの防衛戦、仏領シリアの占領などに投入された。また、太平洋側では、シンガポールの防衛にも、投入されている。太平洋戦争が始まり、シンガポールが陥落すると、兵力を奥州方面から引き揚げて、防衛体制を整備。その後、米軍との共同作戦のもとニューギニア島ソロモン諸島インドネシア方面で戦う。

久野潤「インタビュー:佐伯光男:帝国陸軍最後の戦車戦に参加した陸軍戦車兵」

 1945年8月17日の占守島の戦いに参加した戦車兵の経験談昭和17年に少年戦車兵学校に入学、19年に卒業して、占守島へ。負け戦の中での守備。九五式軽戦車での、ソ連軍との戦い。バッテリーの充電が済まず、出遅れて、歩兵相手の戦闘を行ったのみ、か。軽戦車で、まとまって突撃していたら、どうなっていただろうなあ。

橋場日月「陶晴賢

 水陸交通の要衝を所領として、流通志向の武士だった、と。
 大内義隆の中央集権志向に反発して、反乱を起こしたにもかかわらず、自分も同じような政策をとって反発される、と。