近藤好和『弓矢と刀剣:中世合戦の実像』

弓矢と刀剣―中世合戦の実像 (歴史文化ライブラリー)

弓矢と刀剣―中世合戦の実像 (歴史文化ライブラリー)

 同著者の『騎兵と歩兵の中世史』以来、ずっと課題だったのだが、やっと手を出す。書庫から借り出すのめんどいと思ってたら、プラザ図書館には開架で入ってた。
 軍記物や説話、絵画資料、現物資料の読み時から、源平合戦あたりまでの中世初期の戦い方の変遷を、個別の戦いの記述の分析から解き明かす。11世紀後半から12世紀後半の1世紀の間に、弓が竹と木を組み合わせた合成弓の導入による威力増加、逆に、大鎧の防御力の強化。攻防ともに、強化が進んだことが戦いの姿を変えていく。11世紀後半の前九年・後三年の役、12世紀前半成立の今昔物語集と12世紀後半の治承・寿永の乱の各段階で、戦い方が明瞭に違ってくるのがおもしろい。
 つーか、蒙古襲来絵詞の集団の騎馬武者が突撃していって、矢を射かけるスタイルのイメージが強すぎて、むしろ、割と動きの激しい戦いなのかと思っていたが。そうでもないんだな。そりゃそうだよなあ。人間60キロに、具足30キロを背負って、長々とは走れないよなあ。そう考えると、ヨーロッパの騎士の戦いも、以外とゆったりしたものなのかねえ。どうも、戦のイメージって、難しい。
 中世初期段階では、常に弓矢がメインウェポン。第一に使用される武器。
 治承・寿永の乱では、まずは騎馬武者が、止まった状態で弓矢を交わし、その後、攻勢側が馳射に移行。矢を射尽くす、あるいはどちらかが崩れると、乱戦になって、太刀で打物戦に。太刀の打ち合いや組討で、首を取るまで戦う。
 弓矢に鉄壁の防御を誇る大鎧も、近接戦になると、兜の鉢の上を握られて首をかかれたり、兜の上から太刀でぶん殴られて脳震盪になったり。意外と、弱みを見せる。兜が弱点なのな。弓の撃ち合いでも、顔は無防備だから狙われたり。
 治承・寿永の乱では、歩兵の存在感はそれほど高くないが、僧兵を中心に、長刀などの長柄武器を使う。また、城攻めなど、徒歩の戦闘では、長柄武器が重宝される。


 その前の段階では、騎馬での戦いは弓矢、徒歩戦闘では打物と、もっと役割分担がはっきりしている。『今昔物語集』に収録される合戦の描写や前九年・後三年の役では、戦闘では弓矢がもっぱら使われ、打物は、もっぱら城攻めなどの特殊な状況での使用しかない。馬上での使用の明確な事例も存在しないという。
 一方、太刀などの近接武器は、平時の犯罪や護身といった用途で多用された。盗賊をぶった切るとか。
 このあたりの差は、戦国時代の鉄砲と刀の使い分けと通じる感じがする。


 以下、メモ:

 かかるわが国在来馬の特質(特にその小型であること)は、一見、特異なことのように思われる。しかしそれは、競馬のために品種改良されたサラブレッドなどと比較するからである。現在のモンゴルの馬をみればわかるように、実はわが国在来馬の特質は、アジアの草原馬全体の特質であり、そのなかにあってわが国在来馬はむしろ標準といえよう。古代中国でも軍馬の条件は一三〇センチ以上であり、有名な秦始皇帝陵兵馬俑は実物大だが、その馬俑の平均体高は一三二センチなのである。p.74-5

 アジアのどこでも、馬は比較的小柄だった。つーか、サラブレッドがでかすぎる、と。
 そういえば、ヨーロッパ中世の騎士の馬も、それほど大きくなかったとか、どこかで聞いた気がする。

 騎射に巧みな蝦夷に対抗するための弩が、ここでは蝦夷阿倍氏蝦夷の長である)に使用され、逆に安倍側に弓箭がみえないという逆転現象には非常に興味深いものがある。そういえば、柵そのものが、蝦夷征討の基地として律令国家によって設置されたものであった。いずれにしろ、これが弩の実戦使用を示す最後の記事であろう。p.107-8

 安倍一族が、蝦夷の長と対蝦夷の最前線責任者という両方の性格を持っているからこその特徴なのだろうなあ。他ではリストラされた弩の生産補修基盤が、対蝦夷の最前線のみに残され、それが「官軍」に向けられる。
 蝦夷の得意技であった騎射が出てこないというのも興味深い。蝦夷にとっての騎射が、狩猟など、生業のためではなく、むしろ政治的、儀礼的な存在であることを示しているのではないだろうか。

 徒歩で目標物の至近距離で弓を構えるといえば、現在でも、たとえばブッシュマンなどの狩猟法をみると、獲物の間近に近寄って矢を放っている。その弓は短いが、木製弓である。さらに身体を前傾させて弓は正面に構える。現在の弓道の射法とはまるで趣が違う。至近距離の歩射はこうしたブッシュマンなどの射法に近いのではなかろうか。歩射というと弓道を思い出すのは当然だが、弓道はあくまで現在の競技用(または儀礼用)の射法であり、古代・中世の実戦、実用の射法とは同一視すべきではなかろう。p.120

 ずいぶん違うと。