高木久史『戦国日本の生態系:庶民の生存戦略を復元する』

 図書館から借りてきたのはいいけど、読み終わらなくて一月かかってしまった。小説はともかくとして、新書にしろ、選書にしろ、なんか途中で集中力が切れがちなんだよなあ。借りてきた本は必死で最後まで読むけど、自分で買った本は読みかけが山を成しているという…
 返却期限ギリギリで読み終わったので、必死に整理。


 旧越前国の極西部、若狭湾の東岸、越前海岸と丹生山地という場所で、人々がどのように環境に適応し、その資源を利用して生きていたかを再構成する試み。民間の生活が窺える史料が豊富に残る地域を題材に、生業史研究の視角から地域の歴史を再構成している。戦国の「英雄」たちが派手に活躍する、その裏でどういう社会構造があるのかを探る。ブローデルの言うところの「三層構造」のうち、長期から中期のレンジのお話。


 しかし、室町時代に遡る史料、特に民間の活動が窺える史料がたくさん残っているのが驚き。一つは、この地域の領主が越知神社と剱神社という宗教組織であることが大きそう。武士は時代の境目で没落したり、移動したりしているけど、神社は持続した。あとは、越前一向一揆殲滅などの戦乱に直接巻き込まれなかったこと、津波などの大災害にあっていないことがありそう。
 熊本の海岸地域は、島原大変肥後迷惑で大津波を喰らってるし、肥後国一揆であらかたの勢力が入れ替わっているしな。阿蘇社あたりも、国衆化しているから、一気に体制が変わってるし。


 全体は四章。第一章は越知山を対象に「山・森林の恵みと生業ポートフォリオ」、第二章は越前海岸を対象に「『海あり山村』の生存戦略」、第三章は越前焼という製造業をクローズアップした「工業も生態系の恵み」、第四章は水運馬借といった輸送業を取り上げる「戦国ロジスティクス:干飯浦と西街道・敦賀」と様々な環境の人々を取り上げる。


 第一章「山・森林の恵みと生業ポートフォリオ」は、柴田勝家の樹木伐採の禁令から歴代の森林伐採規制の歴史から森林資源をめぐる軋轢。あとは、1471年に作成された越知神社へ納税される物品のリストから、どのような山の恵みを利用していたかの紹介。近世に入ると、石高に換算されて、こういう細かい状況はマスクされてしまうが、この時代、地元の神社ということで古い時代からの細々とした物の収取が温存されてきたのだろう。
 薪、漆、ススキなどの素材・燃料、各種の容器類など木工品、柿などの果樹やヤマノイモ、トコロ、ワラビなどの山菜類と、地域全体で多様な採集物から加工品までが利用されていることが分かる。工兵としての従軍を要求する一方、その場合は反対給付として諸役免除となる。
 最後は資源の分配をめぐるせめぎ合いと行政権力。森林資源の利用限度をめぐって、現地の村人と領主である越知神社・大谷寺が裁判で争う。両者、コネを使って、自分たちに有利な条件を得ようとせめぎ合う。あるいは、市場向け生産の重要性。
 これらの資源維持をめぐるせめぎ合いは、織豊政権の時代、江戸時代に入っても続く。住民と行政権力が対峙する形に整理されるが。ついでに言えば、結局、行政権力の意志は貫徹しない。山に関しては、今もあんまり規制が機能していないよなあ。盗伐とかが普通にあって、行政は見逃している訳で。


 第二章「『海あり山村』の生存戦略」は、越前海岸の集落の生業の姿を追う。越前海岸は、海岸ギリギリまで山がせり出し、片一方は海の資源を利用しつつ、陸側はほとんど山村と変わらない。しかしまあ、海の資源を利用しているなら、普通に「海村」でいいと思うけど。
 こちらも、納税リストが手がかりとなる。二つの時代のリストを紹介。14-15世紀のリストからは、銭や鏡餅など外部から調達したとおぼしき物品、串柿といった果樹、製塩、時期ごとに獲れた海産物、ワカメやノリなどの海藻、ススキといった山の産品と、満遍なく地域の資源を利用していることが分かる。
 1471年のリストはもう少し詳細。アワビ・サザエなどの貝類、タイやハマチ、トビウオ、タラ、サバ、イカなどの各種魚類など。網漁の導入拡大や漁労技術の革新などの姿が浮かび上がってくるのが興味深い。
 製塩、越前海岸はあんまり向いてなさそうだけど、燃料の供給が豊富というのが強みなのかな。
 あと、山本九郎の負傷のエピソード、苗字を名乗ってるし武士として従軍した可能性がけっこう高いのでは無かろうか。どこまで、輸送サービスや海軍力として動員されたかわかりにくい。


 第三章「工業も生態系の恵み」は、備前焼を題材に工業生産について。
 高温で焼いた無釉の土器というか、陶器というか。壺や甕、すり鉢が日本海沿岸地域に広く流通し、常滑焼、備前焼と並ぶ生産元だった。
 前近代の工業、これは備前焼をはじめとする窯業だけではなく、製鉄や各種金属加工も、燃料の供給に影響されるんだよな。その点で、備前焼の産地である丹生産地は、燃料が豊富で有利だった。また、中世の早い段階では、燃料を求めて転々と移動したが、それに対して行政があまり関与しなかったらしい、無関心というのが特徴。
 15世紀に入ると、平等に生産が集中すると同時に、窯の規模が拡大。そのために窯の壁面を軽石で覆って窯の耐久性を増すといった技術革新が行われた。また、燃料は外部からの供給を受けるようになった。
 一方で、燃料供給問題は、剣神社との森林保護をめぐる軋轢や周辺の集落との燃料をめぐる軋轢を生み出した可能性が指摘される。
 「複合的生業」という論点が展開されているし、確かに平等集落全体では農業も行われていたのだろうけど、越前焼の創業時期が農繁期と被っているのが気になる。個々の人物単位では、ほぼ窯業専業だった人もいるのではないだろうか。オフシーズンには薪の集積などの業務も必要だっただろう。
 あとは、前近代においてGDPがどこまで意味がある物であったのかとか。中世において、すり鉢が万能調理具だったとか。安い粉ひき道具だった。あるいは、ご飯を炊くというは比較的最近普及した技術で、すり鉢で挽き割りの粥として食べることが多かった。その際、土鍋兼用だったとか。


 第四章「戦国ロジスティクス」は運送業
 越前海岸南部、河野浦・今泉浦と中山集落などの「山内」の馬借集団をめぐるエピソードと、敦賀の水運業者の独占をめぐるせめぎ合い。どちらも、特定集団が輸送需要を独占しようとしつつ、近隣の他のプレイヤーとせめぎ合っていた。また、そのために行政権力とつながって、独占権を承認されていたが、その独占は自力で実現しなければならず、貫徹が難しかった状況。というか、権力の保障の頼りならなさが印象深い。
 三国から敦賀の連絡ルートにおいて、九頭竜川を遡上し、府中から陸運に替え、丹生山地を越えて河野浦・今泉浦から水運に戻って敦賀に向かうルートが前近代にはかなり重要なルートであった。実際、地形図で見ると、北国街道の木ノ芽峠や栃ノ木越は標高600メートルで、かなり深い山を越えなければならないから、中津原と中山の二つの標高200メートル級の峠を越えるだけのこちらのルートが、積み替えの手間があっても、ずいぶん楽そうではある。南北朝までは蕪木浦を港としていたが、15世紀に今泉浦に切り替わったというが、ルート的には蕪木浦で海に出るんだよな。なんで、わざわざ陸運の距離を増やしたのだろう。
 若狭湾海域の経済圏みたいなのが見えてくるのが印象深い。若狭湾側から塩や板材が主要な輸送物資で、これらの需要が争われた。他に砂や塩蔵魚類が供給される。一方、若狭側には越前焼や燃料が供給される。あるいは、中継加工貿易の拠点としての敦賀。越前海岸から鮮魚を購入し、それを塩漬け加工して、各地に販売する。一般的に、経済史は京都を中心とする流通圏の史料が豊富に残るため、そちらに視線が行きがちで、こういう地域流通圏が復元されるのは珍しい、と。


 とりあえず、地形図と首っ引きで見直したいところ。
 あと、「生態」として考えると、史料の制約で解像度が足りていないような気がするな。もっとミクロの資源利用が見えてこないと、物足りない感が。