戸森麻衣子『大江戸旗本春夏秋冬』

 江戸の旗本の家や私生活について、旗本家が残した史料から再構成している本。1300石取りの旗本三嶋家と3000石取りの交代寄合金森家関係の史料がメイン。あと、韮山代官江川家のエピソードが多かった印象。比較的上層の、文事に親しんだ家というバイアスはありそうだけど。
 幕末にもなると、様々な日記史料を中心とした、私生活を語る情報源が出現するけど、逆に言えばそれまで、そういう私生活に関する情報が少ないってことだよなあ。


 旗本屋敷の構造、家督継承にともなうすったもんだ、家臣団などの屋敷に出入りする人々、年中行事や家計、日常生活のディテールなどが取り上げられる。


 第一章は、旗本の屋敷について。
 大名に限らず、旗本も幕府から土地を貸し与えられた拝領屋敷であった。しかし、「相対替」と称して、有償で土地の交換が行われるようになると、事実上武士間での土地の売買が行われることになり、資金力がある大名が好立地の場所を確保していった。また、土地の貸し出しも行われていて、割と自由に拝領屋敷はカスタマイズされていて、事実上の私有財産化していた。
 平面構造は、江戸城の御殿と同じく、客人との応接や家臣の執務空間などの公的な機能を持つ「表」、当主の居住空間である「奥」、妻子や隠居が生活する「大奥」の三空間に分割されていた。しかし、旗本の場合は、身代に応じて規模が小さくなるため、公的空間と私的空間分離が中途半端になるなどの妥協があった。また、周囲には家臣の住む長屋、土蔵、厩、屋敷内稲荷社などが置かれた。
 平面図が複数紹介されているのがおもしろい。特に三嶋家の植栽なども含めた図面がおもしろい。公的な客間の前には池と小山、松をしつらえた庭があり、一方で奥には花菖蒲や芍薬を植えた花壇があって、誰か園芸フリークがいた感じ。整備が行き届かず、子供の遊び場と化していた事情や、娘が隣の家に石を投げ入れるイタズラの場となっていた桂川家、血縁者の子供が家臣の子供に築山を崩すように強要してた金森家とか、エピソードがおもしろい。
 安政地震からの屋敷再建にすったもんだする三嶋家。領地があると木材の手当てなどで有利なのか。


 第二章は由緒書や相続の手続きについて。
 それぞれの家に伝えられた由緒書が、特に記録の意識の高い家では、信憑性に疑問がつくエピソードなど枝葉を刈り落としてある幕府編纂の『寛政重修諸家譜』よりも情報量が豊富である。特に血縁者の女性などについて、三嶋家などは丁寧に記録されているという。
 後継者決定も、単純に長氏が継いでいたわけではないと言うのが印象深い。「惣領除」で廃嫡される事例が割とあったり、家臣団に誰が後継者に適当かを諮問した記録があったり。相続の順位が決まっているわけではなかった。
 当主死後の手続きの虚構性が興味深い。末期養子の届け出を必要とする場合だけではなく、順調に相続される場合でも、実際の死亡日と幕府への届け出日付は相当離れているし、上司などがチェックする「判元改」の形骸化がすごい。息子の役料を当てにして、隠居していなかったために、いろいろな手続きが必要になるとか。下級の家では、手続きをサボったり。
 あとは、養子に相続させた場合の、一族関係者に生活費をいくら分与するといった取り決めがあらかじめ結ばれているのも興味深い。


 第三章は、旗本の家族について。
 結婚や配偶者について。部屋住みの人々。子女について。
 婚礼が意外に簡単なのが興味深い。最初に下交渉で、互いの待遇に条件を付け合う。婚姻相手の使える資金がどの程度かなども、ここで決められて、冷遇されないようにされる。そして、婚礼。史料上では「引取」という用語が出てくるのは簡略化された形式であることを示す。当人同士と媒酌人が集まる程度。その後、3日目に「三つ目」のお祝いが行われ、その後新郎と新婦が実家を訪れる「里披き」が重要だった。これによって、家と家の関係が確立される、と。幕末、参勤交代の制度が緩められた時、国元への移動と里披きのスケジュールが合わなくて困る金森家の事例が興味深い。
 また、その後、離婚がけっこう多いのも印象深い。割と短期間で離婚が成立する。これは、人出の少ない旗本家では、家政や養育のサポートが弱く、これらを自力でこなせる人材であることが求められたからである。「妾(しょう)」は、近代の妾(めかけ)と違い奥女中待遇の正式な家のメンバーで、後継者を産むために必要だった。三嶋家の事例では、正妻が6人産んで全部夭折。妾が産んだ娘一人が育って、婿養子をとっている。正妻の子どころか、妾の子で次代を継がせるのもハードルが高かった。あと、暇をとって離れた後も、給与を払っていたり、病気などの際に来てもらったりと関係が維持されているのも興味深い。
 伯父や従兄弟が「厄介」として、同族団の扶養対象になっていたこと。その際には妾という形で妻子を作ることができたが、本人が死ぬと離れる必要があった不安定な立場だった。あるいは、子女の教育。男性は幕府への報告制度があったので19世紀になると、学問がから各種技芸、武術までいろいろと学ぶ一方、女子はそういうものがないので家の文化資本がストレートに現れる。家を訪れる人々との交流によって学問を身につけていく女性。あと、幕末になると英学や高島流砲術、洋式教練など時流に沿った学問が入ってくるのが印象深い。


 第四章は家臣団などの屋敷に出入りする人々。
 大名に比べると小身で財政の厳しい旗本は、士分武家奉公人あわせて10人から数十人程度の人員を揃えておく必要があったが、太平のなかで削減が行われている。また、様々な理由で家臣の出入りが激しい。そもそも、10石取り程度の給与と収入が低い。それでも5000石の久松松平家だと最上層が40-50石程度。
 結果として譜代の家臣は少なく、譜代と言われていても、出戻りなどが多く、代々仕えた家というのはほとんど存在しない。あちこちの旗本家を渡り歩く渡り用人といった人々で補われる。また、領地を宛がわれている家では、在地上層の家から採用というか、財政難解決のために在地側から介入され、領地の管理から財政管理まで権限が拡大していく傾向もあるという。
 小さなコミュニティだけに、内部で不祥事を起こしても家を潰せなくて出奔や密通でも格下げ程度で済ます金森家の家内法が印象深い。あるいは、三嶋家が婿養子で代替わりした際の家臣一掃とか。
 家臣団は、武士身分である用人、給人、小姓などと、士分に入らない武家奉公人である足軽、侍、中間、小物などに分けられて、4:6程度の構成比になっていた。後者は、戦陣では、足軽を除けば非戦闘員の従者にあたる。江戸の人材派遣業者である人宿からの斡旋、少し離れた上総や信濃から百姓を派遣、あるいは知行所から人を出させるなどで調達され、行列などに従事した。彼らは、長屋の大部屋で共同生活をしていて、生活空間が被らなかったようだ。他に厩を管理する「別当」が、馬を維持する旗本家では雇われていた。
 女性使用人としては、身の回りの世話や奥方のサポートを行う奥女中と、雑用に従事する下女と、こちらも分れていた。通称で管理されていたというのも興味深い。近世までは、名前というのは可変的だったんだな。出自としては、三嶋家では旗本家臣や藩士の娘、町人の娘、江戸近郊の百姓の娘からリクルートされていた。
 他に学者や医師に定額の給与を与えて、パトロン的というか、相談役的関係を作ったり、大工、物資供給、年貢米輸送の廻船商人、屎尿汲み取りの百姓といった人々が出入りして、特に町人は親密な関係で、家の維持にも重要な役割を果たしていた。


 第五章は年中行事や日常生活。
 江戸幕府の年中行事に範をとりつつ、各家で独自の伝統もあったりする。また、江戸城での行事への出席が優先で、その後に各家の行事が行われた。
 一見して、正月の行事が多いのが印象的。15日まで断続的に儀礼がある。あとは、五節句とか、初午とかが重要なのかな。
 初午に、屋敷神の稲荷社を中心に行われる祭りが興味深い。関係する町人も呼んで、屋敷内は地口行灯や舞台を仕立てて、祝祭空間を作り上げる。前近代だと、宗教儀礼と娯楽が一体化しているのが基本だなあ。
 盗賊の話が興味深い。武家奉公人など、行跡が怪しい人間が出入りするわりに、警備能力が低い旗本屋敷は狙いやすい目標だったのかな。地理に詳しい人間が忍び込んでコソ泥を働く。そして、盗品は商人仲間と旗本家臣のネットワークで取り返せたり、仲間内での盗難の解決が図られるあたりもおもしろい。
 三節は旗本の借金事情。幕府系金融機関や座頭官金、旗本同士の貸借で、1000両以上の借金が普通に行われていた。これらの返済のための負担は知行所の村々に行くので、村々からの倹約の要求や、最終的に支出を在地側から管理される状況へと発展して行きがちであった。人件費が一番削りやすいとか、食料品や燃料費などの雑費は削りようがないとか、贈答のための支出が大きいとか。


 ラストは、食、娯楽、仏事、病気などについて。
 食料品の贈答が印象的。互いに魚介や菓子類などの食材を贈答。贈られてきた物を、別の家に贈るというのも普通に行われていた。あるいは、梅干しやお漬物のような保存食品は、総出で加工備蓄していた。あるいは、カステラを焼いて贈答していたとか。梅や柿、花梨などは自宅に植えられていて、実用品として消費された。家中でのおかずのお裾分けとか、主人は別格の食生活だったとか。
 特定の門付芸人を呼んでいたとか、寺社参詣、魚釣り、祭礼見学などの娯楽。あるいは、互いに家を訪問して遊んだり。旗本クラスだと、遊女屋通いは資金的に無理、と。
 皆が歌や踊り、楽器に親しんでいたというのも印象深い。現代ではメディアで聞くのは基本だけど、当時は自分で演奏したり、歌ったりするのが、音楽の楽しみ方の基本だった。
 病気の対処が、前近代の医療水準だと厳しいなあ。金森家の養子近清が精神の病にかかった時は、様々な祈祷を頼って、結局、金銭と労力を費やしただけだった。一方で、確実に効果が上がる種痘のような技術を、人脈を伝って早めに取り入れているのが興味深い。お灸がポピュラーな対処だったとか、投薬を受けたり。
 幕末期の疫病では、コレラについては井戸を外部と共有していなかったために感染を免れているが、空気感染の麻疹は一家で蔓延して、他所から人手を集めたり、最終的に当主と惣領除された親族の男手二人で看病したり。
 まじない札を頒布している武士とか、「貴種」による呪的行為とか、薬の頒布なども興味深い。


 文献メモ:
今泉みね『名ごりの夢:蘭医桂川家に生まれて』平凡社ライブラリー、2021
深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ:井関隆子のエスプリ日記』文春新書、2007
太田素子『近世の「家」と家族:子育てをめぐる社会史』角川学芸出版、2011
大口勇次郎『江戸城大奥をめざす村の娘:生麦村関口千恵の生涯』山川出版社、2016
江後迪子『隠居大名の江戸暮らし:年中行事と食生活』吉川弘文館、1999
薮田實編『大阪西町奉行久須美祐明日記』清文堂出版、2016
寺田登校訂『江戸幕府代官竹垣直清日記』新人物往来社、1988
岩淵令治編『勤番武士の江戸滞在記:国枝外右馬江戸詰中日記』勉誠出版、2021
宮田登『江戸のはやり神筑摩書房、1993
鈴木則子『江戸の流行り病:麻疹騒動はなぜ起ったのか』吉川弘文館、2012