黒田暁他編著『用水のあるまち:東京都日野市・水の郷づくりのゆくえ』

 戦後、宅地化が進んだ東京都の日野市で、どのようにして市内に張りめぐらされてきた用水路を保全するかを検討した本。基本的には自治体の基本計画や市民団体の活動など、私自身が興味がない問題だけに、読むのに苦労した。内容としては、第一章が地形の特徴や歴史的展開、第二章が行政の都市計画・基本計画における用水路の位置づけとその変遷、第三章が市民団体と市民参加について。第四章は日野市の農業の現状と用水。第五章がアンケートによる意識調査を素材に、水路に対する感覚について。それぞれ議論している。
 本書の議論、特に最後の議論は、歯切れが悪い。まあ、多数のステークホルダーが(関心のない人も含めて)存在して、その中で、用水路の存在意義をどう確立し、積極的に住民に関わってもらうか。外野の研究者にとっては厳しい問題なのだろうな。都市問題の難しさというか。最初は、「日野市の美しい景観と、水路や湧水を結んでかたちづくられて生活環境の在り方に惹かれて調査研究を開始」(p281-2)したそうで、深く関われば関わるほど大変なのだろうな。


 いや、これは維持そのものがずいぶん難しいのではないだろうか。特に制度や労力の点で。水田への給水という本来の目的を失った用水路を、誰がどのように費用を出して保全するか。果てしなく調整が難しそうな問題。市民活動・市民参加を重視しているが、現状活発に活動している人は1000人ほどぐらいだろう。そう考えると、多くに人に関わってもらう方法、長期的な組織化はずいぶん大変な事業だなと思う。「市民」と言ったって、他に仕事があったり、投入できる労力には限りがあるわけだし。
 基本計画を含めて、全体としては、用水路を保全していこうという社会的合意は存在すると言っていいのかもしれない。行政も、市民にしても総論に関しては、それほど反対派ないように見える。ただ、実際に使用していた水田が、近郊農業の畑に転換していく状況で、「環境」や「郷土」という旗印だけで、毎年4000万円以上の資金を投じ続けるのは、将来的にはどうなんだろう。市内の気温を下げる効果などを経済的価値に換算して、説得していくなどの手はあるのだろうけど。
 本書では、環境社会学や都市計画系の研究者で書かれているが、生物学や水質の専門家が参加していればとは思った。現在でも、排水路として排水が流されている状況ではあるみたいだし、日野市の用水路や湧水の水質はどのようなレベルなのだろうか。そのあたりは、今後の利用にも関わってくるのではないだろうか。
 あと、本書のなかでの市会議員の存在感のなさは異常。こういう、自分の街の形を作る活動にこそ、議員は積極的に関わって、行政と橋渡しをするべきなのではないだろうか。市町村レベルの議会の形骸化というか。熊本市でも、市議会の議員って何やってんだろうって感じだしな。


 本書の市民活動の議論を読んでいて思ったこと。市民参加の議論ってのは、必然的に自営業者・小生産者主体の社会を展望するのかもしれないなと思った。外部に通勤する被雇用者では、地域の問題に本腰を入れて関われない。地域と密着し、労働時間などに裁量がある人でないと、なかなか本格的に参加するのは難しい。そう考えると、ベッドタウンでの「市民参加」というのは結構厳しいのかもしれない。実際、本書で紹介されている用水路に関係する市民団体も、大概主婦と年金生活者みたいだし。日常生活からどの程度時間と労力を割いてもらうのかは、一番大事な問題なのかも。


 以下、メモ:

 同じ1964(昭和39)年2月15日発行の『日野市広報』では、八王子市に建設中の高倉工業団地の汚水が黄緑色の泡を立てながら谷地川に注ぎ、日野市の小川に流入する付近で小魚や川の藻が死に始めていることが指摘されている。p.13-4

 生活公害の中でもとくにカドミウムによる土壌汚染や水稲汚染の問題は日野周辺の各地で発生し、社会問題になっている(『広報ひの』1970年11月11日発行)。用水系統では「日野用水のうち日野駅下を貫流し、谷仲山から宮地区に至る“宿裏掘り”に汚染が目立ち、土壌に最高2333ppmという数値がでた」(『広報ひの』1971年4月1日発行)という。また上田用水でも奇形の魚が発見され、水田の米がカドミウムに汚染されていることが明らかとなったことで、汚染部分の水田は強制休耕処分となり、代償として稲作農家に配給米が与えられた経緯もあった。p.15

 高度成長期の環境汚染というのは恐ろしいレベルだったのだな。現在の中国みたい。まあ、中国の方が何倍も規模が大きそうだが。現在の汚染状況はどうなっているのかも気になる。

 さらに、区画整理事業地内の施策方針として、1農地が残りやすい換地設計、2地形を生かした換地設計などを目指している。p.101

 地形を重視するのは大事だと思う。原地形、災害の様相にも影響するし、第一、幾何学形の町割よりも、ゆるっとした曲線の方が心地いいと思う。ヴェルサイユの庭より、英国式庭園の方が気持ちいいのと同様に。

 その後、1993年策定中であった第三次基本計画構想策定に際し、提言を行い、1995年に最終報告書「市民版日野・まちづくりマスタープラン―市民がつくったまちづくり基本計画」が発行された。この試みは、当時、全国初ということで話題となり、新聞紙上でも紹介された。


「日野の市民の提案能力を高め、多様な政治参加を保証するには、研究機関や専門家集団の支えが要る。日野市のマスタープラン作成グループは「市民こそ一番のシンクタンク」という。実際、建築家も法律家もそれぞれの地域にいる。すべての市民が何らかの専門家といえる。その専門家集団の知恵を結集することが、市民版シンクタンクの第一歩になる。」(『日経新聞』1995年6月3日)


 このように無党派層が増え、政党が次第に力を弱めていく時代の中で、市民によるシンクタンクと実際の政治が繋がることを、新たな政治の姿として取り上げたこの記事は、市民によるマスタープラン創りの可能性を高く評価している。つまり、「日野・まちづくりマスタープランを創る会」は個別問題の反対や告発ではなく、総合的なまちづくりを市民が提案できることを証明したといえるだろう。その後、継続的な市民主体のまちづくりを進めるため、恒常的な組織として「まちづくりフォーラム・ひの」が設立された。p.131-2

 これそのものは素直にすごいけど、どこまで一般化できるかが問題と言うか。組織が安定して官僚化する可能性やどれだけ労力を割けるかというのは、やはり「市民活動」の壁だと思う。

 このような市民活動を担い、市民活動団体を長年支えていたのは、リタイアしたサラリーマンや80年代から活動している主婦たちである。現在、メンバーには高齢者も多く、市民活動団体や活動を複数掛け持ちし――2、3団体の重複も珍しくはない、そのため活動ごとの参加人数が減ってきているともいわれる。1970年代、80年代に発足した市民活動団体は、現在、高齢化や会員減少でどちらかというと衰退傾向にある。また、公園の清掃活動を行う公園愛護会への参加も減っているなど、市民活動自体衰退しているという見方もある。p.140-1

 持ち家を購入できる階層が中心だった、いわば高度成長期型の社会ならではということではあるな。共働きが一般化し、経済的余裕がなくなってきた現役世代は、なかなか参加できないだろうし。そう考えると、今後の「市民活動」というのは、ますます厳しい。ネットのつながりをうまく取り込めればいいのだろうけど、基本的に接触があまりないだろうしな。

 ただし、日野では米価の低迷ならびに農家の高齢化によって、水稲作の主体である農家による用水維持・管理は年々難しくなっている。こうした状況に対し、日野では、住民やボランティアによる水稲作への参加を呼びかけている。
 しかし、こうした取り組みの前提として、「第二次農業振興計画」でも述べられていたように「用水を残すためには、水田が必要不可欠です」(日野市産業振興課編、2004:80)という自覚が市民にとって重要である。というのも、農家ではない市民が用水機能の本源的な意味合いに気づくことは難しいからである。それゆえ、まず水田を“米作りの場”として活かすことが重要である。そこで、こうした水田と市民のかかわりを“より深く”させるために「食」は有効に作用すると思われる。というのも、自らが食べるものをその水田で栽培することになれば、“強い参加動機”が生まれやすいからである。その意味で、地元産の米を給食で利用することは、水田の保全に有効であるだけでなく、農業用水としての用水路保全にも意味がある。「環境用水という考え方の前に、あくまでも農業用水としての位置付けが大変重要なことです」(日野市産業振興課編、2004:80)という認識のもと、「食」という位相を媒介にして、希薄化した、あるいは切れてしまった市民と水田、市民と用水路を再びつなぎ合わせていくことが求められている。p.181

 うーん、自立的な産業としての水田稲作が死にかけている状況で、それをどう延命させるか。

 かつての清流監視委員や清流条例の「協力義務」のような、強いニュアンスの行政主導によるタイトな農業用水路保全は、しだいに緩やかな市民参加の形式による水辺環境保全へとその性質を変えつつある。このことは、農業用水路が農業の構造的な衰退の影響を免れ得ないことと無関係ではない。農業用水路の利用やその維持管理がおぼつかなくなってきた実態から、農業用水路を広く水辺環境ととらえ、農業用水を生態系の保全や景観、親水空間の形成、防火用水、水源涵養といった多機能を備える「環境用水」としてその価値を見直そうとする動きが出てきている。こうした用水をめぐる緩やかな社会組織やしくみの形成とも連動している「環境用水」の概念は、日野の都市農業と実際にどのような兼ね合いにあるのだろうか。p.200

 新たな価値の付与。

 このように用水維持のために大いに期待される日野の米作りであるが、現在、その目的はもっぱら自家消費用や学校給食のためであり、市場に流通させている農家は少ない。日野において農業生産額をあげているのは、野菜や果樹である(図4-12)。こうした現実を考えると、「用水米」を立ち上げたところで、農業収入が大幅にあがり、農業経営が改善されることは期待できないだろう。しかし、「用水米」という発想の目的は、“親水機能”という環境や景観の文脈に傾きがちな用水の維持や保全を、「作る(生産)=食べる(消費)」という本源的な意味において米作りと用水路を再び結びつけるということにある。そして、こうした取り組みが、現在、縮小傾向にある水田を少しでも残し、結果的に用水路を本来の意味を含み持ったままで残すことができればという、“ささやかな試み”であると考えている。
 ともあれ、日野産の米を買い、食べ続けることが、市民に米作りと用水の関係を自覚させ、結果的に日野の環境や景観の保全、とりわけ用水維持や水質改善につながる可能性がある。そのような“しかけ”を構築することは決して無意味な実践ではないだろう。p.213-4

 難しい。

 現在、人工衛星画像、地名データを備えたGoogle Earthを用いてデータベースの公開を進めている(図5-11、5-12)。用水路網、湧水地点、市民団体が調査した水田等の情報を公開し、さらに調査地点の写真115枚をリンクさせ、用水路網については、開渠・暗渠・消滅の属性を与えた。これにより、作成した用水路網図の精度を確認でき、人工衛星画像による用水路周辺の土地利用の目視等、総合的な閲覧が可能となった。なお、将来的には、住人がGPS機能付き携帯電話で撮影した写真を携帯端末からGoogle Earthにアップデートできるようにし、住民参加型の公開データベースとしたい。p.236

 メモ。おもしろそう。

 ここまで述べてきた用水路調査の知見の一つは、日野市には豊かな用水路が存在しながらも、全般的ににはその関係性は「遠い」ということである。
 前述した「用水守」制度以外に、市民と用水路の接点としてあげられるのは、“子どもを介して”用水路へのかかわりが生まれているということである。調査票調査の自由回答欄から、いくつかの市民の声を見てみよう。p.246-7

 遊び場としての水路はプライスレスだよなあ。教育効果というか。

 さらに、これまでの政策を見直し、農業や用水路のもつ多様な価値を強調する動きは、さまざまな領域に及んでいる。例えば、エコ地域デザイン研究所の研究グループは、日野のこれまでの線引制度や区画整理事業によってまちの「器」が大きくなりすぎ、また用水路や緑が断絶されてしまったことを指摘する。さらに今後は、環境問題や人口減少傾向に伴う「縮小社会」を迎えようとしているが、この都市縮小化と人口減少によって「モザイク状」に生ずるであろう空き地を集約し、そこに「緑」や「水」を配置することによって、「廻廊」をつくる「歴史・エコ廻廊」という構想を提示している。「縮小社会」に対応したまちぢくりや都市計画を設計しようとするコンパクトシティ論の見地からの指摘は重要である。また、日野市の崖線と水と緑を一体化した構造として捉え、つなげるという構想自体は。二章で見てきたように、実は日野市の景観、環境を考慮した都市計画マスタープランなどでも示されており、目新しいものではないが、あらためて政策的に緑や水を残しているという方向性を示すという点で意義があるだろう。
 しかし、この「歴史・エコ廻廊」の構想を実際の計画として実行する際には、そこから「現在の住民の生活」に対する視点が抜け落ちていってしまう可能性があることに留意する必要がある。研究グループは、この計画のためには「全市民的な合意が必要かつ重要」と言及している。しかしながら、住民の現実の生活感覚を踏まえると、ただちに首肯することはできないと編者は考えている。なぜなら、空き家や未利用の土地が多くなったからといって、その地区を「歴史・エコ廻廊」の該当地区として、土地利用を集約的に配置転換することは、そこで暮らす地域住民の生活や主体性を置き去りにした計画となりかねないからである。より多くの、さまざまな立場の人々からの意見に耳を傾け、生活や主体性を汲み取っていく必要があるだろう。
 もちろん、現実的な対応の身を考慮してしまうと、豊かな構想が生み出されず、将来の計画とそれに対する反省から抜け出せなくなってしまう可能性もある。この「歴史・エコ廻廊」という構想も、「100年後を考えた都市計画」の指針としての評価はありえるだろう。しかしながら、その一方で、「歴史・エコ廻廊」の提唱という試みが、そこに住む人々がこれまでその土地に込めてきたささやかな愛着や記憶があることを捨象してしまい、外側から「エコ」や「日野の有名な歴史」といったスマートな価値づけを当てはめ、無自覚に上塗りしてしまう危険性を含んでいることを忘れてはならない。従来の地域開発の反省からスタートしたはずの構想が、皮肉にも「歴史」や「エコ」という名目で行う地域開発主義の延長に陥ってしまうことのないよう、議論を続けていく必要がある。p.268-9

 難しいねえ。しかし、スプロール的に住宅地化した土地が今度はモザイク状に廃墟化するというのは、なかなか皮肉な展開だな。まあ、21世紀型田園都市というのが、どういう形になるべきなのか。

 本書のもとになった研究グループは、さまざまな意味で日野市の美しい景観と、水路や湧水を結んでかたちづくられた生活環境の在り方に惹かれて調査研究を開始した。水田と用水路を含む田園風景は、多くの人々にとって「美しい」ものであり、また地域のかつての生活を物語る重要な文化的要素と映るだろう。だが、こうした田園風景について、ただ美しさや伝統文化を外形的に評価するだけでよいのだろうか。近代化=都市化・郊外化によって失われつつある風景を残さなければならないという、行き過ぎた近代化の反省としての、田園風景という景観や生活環境への賞賛は、人々のノスタルジーに訴えることによって一定の共感を受けるかもしれない。だが、そもそも景観自体の合意形成の困難さの前では、この「景観やそれに付随する表層的な生活文化への賛美」もまた一つの価値観に過ぎない。確かに近代批判という思潮は、「現在、都市部に住む私たち」から見れば、興味深い発想である。だが、この思潮を基準にして、小さな共同体の営みを外部から一方的に定位し、評価・解釈・意味づけを行うべきではない。ましてやこの小さな共同体の営みを環境保護、人間重視、自然と共生といった都市で作られたスマートな知の体系の中に回収させてはならない(吉川・松田、2003:21-22)。「ある人びとにとっては美しい風景が、その風景の中で暮らす人たちにとってはとりたてて美しくないこともあれば、逆に、ある人びとから見れば美しかった風景の破壊であることが、他の人びとには美しい風景の創出と見なされることもある。ある風景が美しいかどうかということや、どんな風景を残し、どんな風景を新たに作るかということは、社会的・文化的な価値意識にかかわり、その価値意識は環境と人とがどんな関係の下にあるのかということにかかわっている」(若林、2010:27)からである。
 行き過ぎた近代化を批判し、かつての生活風景からノスタルジーを喚起させ「美しい都市」の姿を構想すること、そして、合意形成の場では安易に住民の主体性に期待し、その一方で「期待される住民の主体性」の欠如を嘆くこと。このような専門家の態度は、建築物やそれを含む風景、景観の美しさや生活環境に対する価値をあらかじめ認識の前提に組み込み、そのまなざしを人々や社会に投げかけているに過ぎない。このようなまなざしは、近代化の中で失わざるを得なかったまちや人々の歴史を埋没させ、専門家の価値観を押し付けることに案る。その外挿的な価値観の押しつけは、「いま、ここ」に住む住民が、「負」の歴史を踏まえた上で本来住民自らの手で模索し、獲得すべき「地域のあり方」や、「地域のために営む」事における住民の主体性を削ぎ、主体性が育まれるべきプロセスを阻むこととなる。
 本書(編者)の主張は、日野市の用水路・行政施策・市民活動、市民参加のあり方を考える際に、再帰性を発揮することを求めるということである。ここでいう再帰性とは、ある対象に対する言及がその対象自体に影響を与え、対象自体がその言及を自ら検討し、評価し直すための材料として活用されることを指す。つまり、行政や市民、さらに専門家などあらゆる主体が日野というまちの今後を考える際には、自らの存在自体が今のまちのかたちに影響し、それぞれの主体に責任があることを前提とした上で、これまでの実践や自らの視点を見つめ直すことから、未来のまちの姿を考えるべきだ、という主張である。まちの主人公である日野市民が、さまざまな「取捨選択」を自ら行い、問い直し続ける作業を経て「残った」ものにこそ、そのまちにとって本質的な選択が見出されていく。そこにこそ、外側から持ち込まれた「もっともらしい」価値観の外挿をはねのけ、日野市民がオリジナルなまちのかたちをつくり出していくいく可能性が見出されるのではないだろうか。p.282-3

 うーん、言いたいことは分かるんだけど、そのまちの景観に惹かれてやってくる人にとって、その景観を維持保全していくことこそが利益なのであって、そうでなければ関わる価値なんてないのではないだろうか。自分が思い描く「夢」も大事だと思う。自分の価値に向けて誘導しようとする営みそのものを否定してしまっては、何のためにそこに関わっているかを見失ってしまうのでは。確かに、自分の立ち位置を常に反省して、やりすぎないように気を配ることも重要なのだが。


日野用水を歩く ―上流編―

佐川美加『パリが沈んだ日:セーヌ川の洪水史』

パリが沈んだ日―セーヌ川の洪水史

パリが沈んだ日―セーヌ川の洪水史

 パリとセーヌ川の水害の関係を扱った本。前半は地理的な説明。パリ周辺の地形の形成、セーヌ川周辺のハード面の説明、セーヌ川の洪水のメカニズムとそれが人間の建設活動によってどのように変化したか。後半は、実際に起きた洪水の解説と治水の話。記録にあるパリの洪水を一章にまとめ、1910年の大洪水について一章をあてている。実におもしろい。人間活動が、災害をどのように変化させていくかを詳細に追っているのが興味深い。


 第一章はセーヌ川の概要とパリの現地形の形成。もともとセーヌ川は、バスティーユ広場からレピュブリク広場、サン=マルタン通り、オスマン・サン・ラザール駅、シャンゼリゼ西側に至るルートを流れていた(旧河道)。現在のセーヌ川の流れにはビエーヴル川が流れていて、「河川争奪」の結果、現在の河道を流れるようになったという。旧河道は湿地として残り、それと現在のセーヌ川で囲まれた島状の土地を地理学的に「サン=マルタン島」と呼ぶそうだ。意外に思ったのだが、セーヌ川北岸のパリ低地では、現在のセーヌ川の河道に近い南端が高く、北に向かって低くなっていくのだそうだ。川沿いの方が危ないと思っていたが、中心部の方がむしろ安全なのだな。


 第二章はセーヌ川をめぐるハード面についての説明。パリの河岸(かし)や橋、島々、航路・水深・川幅と現在は堰を作って水深が安定している状況などを説明。
 ここでは、河岸の構造と島の話が印象的だった。パリの河岸は、土地がかさ上げされ、その支持壁で覆われている。何百年も盛り土を繰り返しているということは、下には大量の遺跡が眠っているのだろうなと。あと、セーヌ川の島については、

 かつて、パリのセーヌ川の水面から頭を出している「島」は十八あった。現在はノートル=ダム寺院のあるシテ島とその東側にあるサン=ルイ島の二つだけである。1833年まで、サン=ルイ島の上流側にはもう一つ「ルーヴィエ島」があった。
 これら三つの島は、川が運搬してきた土砂が集まって堆積したものではなく、硬い地層をセーヌ川が削りきれず、そのまま島となって残ったものである。そのため、大規模な洪水が来たときでもその位置が移動することがない。その他の島は砂や泥が集まってできているため柔らかく、形や位置が変化しやすいものであった。わずかでも多くの土地を手に入れたいと考えた人々は、これらの小さな島に手を加え、使える土地に変化させた。島同士、あるいは岸との間にあった浅い流れは埋め立てられ、嵩上げされた小島は川岸やシテ島に統合された。p.40-41

ということで、主要な島は、岩盤でできていたようだ。どうにも、中州というイメージしかなかったから意外だった。


 第三章はパリの洪水のメカニズム。「地上からの浸水」と同時に、地下水位が上昇し地下室が浸水する「地下からの浸水」。橋脚などによる河道閉塞による水位の上昇、下水道や地下鉄を通じた浸水、氷による水害など、パリの水害のメカニズムと、水量計やどこまで水位が上昇したかの話。

 流量が増え、水位が上がることは、川にとってはあたりまえの自然現象である。それがおこる場所に人間が入り込み、生活するようになったとき、人々は「洪水による被害」を受けるようになった。
 洪水そのものを激化させ、被害を拡大させている原因は人間が作り出していることの方が多い。パリが都市として発展していくのと歩調をあわせるように、セーヌ川の洪水も激しさを増していく。人間の生活の利便性のために建設されたインフラストラクチャーが、パリを流れるセーヌ川の性質を変化させ、その結果、人々の生活を脅かすような洪水がおきやすくなった。p.56-7

 人間活動と災害の共進化。


 第四章はパリの洪水の歴史。古代から19世紀まで。記録にある限りの水害を拾い上げている。ここが一番資料集めに苦労したのではないだろうか。
 ローマ時代のシテ島の市壁が、シテ島内の水害を防ぐと同時に、水路を狭めて他の低地の浸水を悪化させた状況や、シャルル5世の城壁の防災効果などが興味深い。
 あと、中世から近世にかけてのヨーロッパの都市の橋は、上に家が立ち並んでいるので有名だが、パリに関してはわりあい頻繁に建物ごと流されているのが恐ろしい。セーヌの洪水はゆっくりと水位が上昇するので、意外と人的な被害は少なかったかもしれないが。それでも、この章では、人的被害が言及されているし。どれだけ死人が出ていたのだろうか。
 他の都市でも「ロンドン橋落ちた♪」なんて歌があるくらいだから、よく流されていたのだろうけな。Wikipediaロンドン橋落ちたがおもしろい。


 第五章が、帯でも扱われている、1910年の大洪水。日単位で詳しく描かれている。地下鉄が水害に脆弱だったり、地下からの浸水でインフラが軒並みダウンしていく状況、低地の市場や港で働く人々の失業など、近代都市での災害のあり様。
 ゴミ処理システムがダウンする状況と水が引いた後の汚物の処理がなんともすさまじい。つーか、ゴミ処理施設が機能不全になったからって、橋からセーヌ川に投げ込むって判断が無茶だな。

 大量消費生活を謳歌していたパリ市民は、一日あたり1320トンのゴミを出していた。(中略)警視総監レピンは、こう指示を出した。
 「増水した川の水の力で、下流へ運ばせてしまおう。パリのゴミを海まで流せれば御の字だ」
 ゴミを橋の上からセーヌ川に投棄することが決まる。文字通り「水に流す」作戦である。投棄場所はパリの上流側のトルビアック橋、下流側のオートゥイユ鉄道橋(1958年に廃止、現ガリリアーノ橋)の二ヶ所である。橋の上に集合したダンプカーから、人が熊手を使って川の中へとゴミを掻き落していった。
(中略)
 パリ市民は仰天した。泥水に混じってすさまじい量のゴミが流れてきたからである。パリ市がこの作戦を秘密裏に行っていたことが問題となった。マスコミはすぐに「川の流れに漂うゴミ特集」を組み、連載は2月7日まで続いた。水が勢いよく流れているうちはよかった。川の水位が下がり始めると流れの力も衰え、市内の河岸、下流の堰、そして川沿いの集落の川岸には、ありとあらゆるゴミが漂着した。パリよりも下流の市町村は猛然と抗議の声を上げた。p.164-5

 いや、もう笑うしかないけど、ゴミが漂着した側にはシャレにならなかっただろうな。あと、1910年の段階で、ゴミの処理にダンプカーが使われていたというのが興味深い。モータリゼーションがそこまで進んでいたと。


 最後は現在のパリの水害への備えと巻末の資料。地図に年表に参考文献となかなか充実している。おもしろかった。


 以下、メモ:

 マリー水路、グラモン水路では、水は淀んだようになっていることが多かった。流れがないことを利用して、そこは舟溜まりとなった。積荷を載せたまま係留された舟が倉庫代わりとなったことはすでに述べたが、マリー水路では、船の上で直接、野菜や果物を商う水上マーケットのようなものを、20世紀初頭まで見ることができた。p.46-7

 ( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェーヘェーヘェー

 川の流量が増え、水位が上がると、河床は受ける水圧も増加する。この水圧が、川の中へ染み出そうとする地下水の水圧よりも大きくなると、地下水の移動する方向が逆転する。このとき川の水位上昇と連動する地下水位の上昇が始まる。地下水の通り道となっている周辺の透水層へ向かって川の水が染み出し、川の水位と等しくなるまで地下水の水位を上げてゆく。透水層の砂や土の粒子のすきまを水が移動するので、地下水位の上昇は非常にゆっくりとしたものである。そのため、セーヌ川の水位が上昇し続け、水位のピークを迎えた日からひとあし遅れ、約一週間後に地下水の上昇が始まる。川の水位が下がれば川から地表面にあふれた水は引いてゆくが、地下水の水位上昇は急には止まらず、地上が乾燥してもなお、まだ高いままの川の水位と同じ位置になるまで上がり続ける。p.58-9

 地下水位の上昇による地下室の浸水というのは、日本ではどうなんだろうか。あまり聞かないように思うのだが。

 地下水の浸水被害は、その建物に住む人々に二次的な被害も及ぼす。パリでは、水道、ガスだけでなく電気も地下を通って届けられている。よく知られているように、電信柱が街中にないことがパリの美しさの一つになっているが、地下室に水が入ると、そこにある配電盤がだめになり、建物全体の電気が使えなくなる。p.62

 個人的には、このあたりの脆弱性を考えると空中架線の方がいいと思っているのだけど。熊本市内でも結構、電線の地中化が進んでいるけど、地上に置かれている変圧器(?)の箱が、結構邪魔だったりする。特に鶴屋の裏な。

 洪水になると、川の上流からさまざまなものが流れてくる。木、氷塊、船頭のいない船(岸に舫ってあったものが外れて流されていくる)、ときにはワイン樽までが、激流に乗って下ってくる。重量のあるものが橋脚に激突し、橋が落ちることがあった。また、漂流物は橋脚にひっかかり、支間をふさぎ、その上に新たな漂流物がからんで、ダムをつくった。この漂流物のダムは川の水を堰きとめ、上流側の水位をさらに上げた。次々と流れ着くものによってダムはさらに高さを増し、それにつれて水位も上昇し、最後は橋げたの下は完全にふさがれてしまう。橋の下を通り抜けることが不可能となった川の水は、橋げたの上を乗り越えて流れていく。普通、橋げたの方が川岸よりも高い位置につくられているので、橋の上に上がった水はそこから周辺の土地へも流れ落ちていく。漂流物のダムができると、ダムが受けている非常に高い水圧を、橋全体で支えなければならない。その強度が不十分であれば、橋はダムとともに破壊され、崩れ落ちる。p.71

 1953年の6.26水害を思い出させる話。この時、子飼橋の橋脚に漂流物が溜まって、倒壊している。→http://bp.kumanichi.com/photo/archives/list?page=18&words=%E5%A4%A7%E9%9B%A8

 「川」であったセーヌが「航行水路」として大きく姿を変えた十九世紀であったが、相変わらずパリは洪水に襲われ続け、人々は冬になれば不安になった。建築家シャルル・ガルニエも、そんな一人だった。彼の名前を歴史に残すことになるオペラ座(オペラ・ガルニエ)の建設が、1861年に始まる。ガストン・ルルーが二十世紀初頭に書いた『オペラ座の怪人』の舞台にもなっている大劇場である。小説の主役である怪人は劇場の地下、地底湖のほとりに住んでいる。怪人の存在はフィクションだが、地底湖と呼べるものは実在する。
 オペラ座の用地が決定した頃、このあたりには高さの低い小さな建物と、農地しかなかった。大きな石造りの建造物を支えることができない軟弱地盤だったからである。オペラ座の建設用地はパリ低地の中、セーヌ川旧河道湿地の中にあった[図4-17]。これまで述べてきたように、旧河道湿地というのは周辺からの地下水が集まりやすく、地下水位も高く、川によって運ばれた軟弱な地層が厚く堆積している。ガルニエはなぜ、このように極めて条件の悪い場所を、あの巨大な石の建造物の建設用地として選んだのであろうか。
 地面を掘り下げ、基礎工事が始められた。案の定、すぐに地下水脈にぶつかり膨大な量の水が工事現場に溜まり始める。しかも、その量は考えていたよりもはるかに多かった。
 劇場のすべてを支える基礎部分を完成させるためには、水を抜いて土地を乾燥させ、地盤を安定させなければならない。放っておけば五メートルの深さにもなってしまう。この水を抜くために、1861年3月2日から10月13日までの226日間、38馬力の排水ポンプ八台を二十四時間フル稼働させた。排水量の合計は「ルーブル宮の中庭の面積にノートル=ダムの1.5倍の高さをかけたもの」であったという。大量の水を強制的に抜いたことで、周囲の半径一キロメートル以内の地域にあった井戸がすべて枯れてしまった。
 次に水を抜いた地面に杭を打ち込んで地盤を安定させる工事が行われた。これも難工事で、四台の杭打ち機を使って、11月6日から翌年5月21日まで半年以上も作業は続くことになった。
 基礎工事が終わったからといって地下水がすべて消えてしまったわけではない。新たに地下水が供給されることを考慮して、劇場本体のさらに下、地下のもっとも深いところに水をためるための巨大なプールがつくられた。貯水のための空間を残し、その上から何層にも重なる劇場本体をつくり始めている。歌姫たちが歌い、踊るその真下に大きな池がつくられた。建設工事まっただなかの1867年、パリを洪水が襲った。川の水位が上がれば地下水位も上がることを知っていたガルニエは、自分が設計した石造りの建物は非常に強いが、激しい洪水に襲われたら、地下の構造は地下水の横からの圧力に耐えられないのではないかと心配した。道路面から十一メートルの地下につくられた面積二千五百平方メートルの大きな空間に逆に水を貯めて、その水圧を利用すれば地下水の圧力に耐えられるという計算結果がでていたにもかかわらず、である。今もなお、完全防水の壁の内側には、どこからともなく地下水が染み込んできている。現在この人工の地底湖には、ある程度水が溜まると自動的に排水ポンプが作動し、水が抜かれるシステムが完備されている。p.144-6

 「オペラ座の地下プール」。そういうつくりになっていたのか。つくづく、フランス人は地底世界が好きなのだな。
オペラ座の音響室
フランスかぶれの手帖 パリの地下世界

 収蔵品大移動マニュアルを準備した美術館の中には、ルーヴル美術館オルセー美術館、ポンピドゥー・センターが含まれている。ルーヴル美術館オルセー美術館では、セーヌ川上流部に建設された貯水池によって1910年のときほど水位が上がることはなくなったことをうけて「地下収蔵庫への浸水はない」という前提のもと、整備、改造工事が行われ、現在の建物が完成してしまっている。ポンピドゥー・センターは地上からの浸水よりも、下水の逆流による地下室の浸水被害に見舞われる可能性が高い。1940年、第二次大戦中に美術品を地方へ大規模に疎開させた時以来となるこの救出プランは、520万ユーロの予算(2003年単年度分)、六百台を超えるトラックを使って十万点の美術品をパリ近郊に準備された広さ一万平方メートルの仮保管庫に移動させるものである。対象となっている施設は、ルーヴル美術館オルセー美術館、国立高等美術学校、装飾美術館、フランス美術館・博物館研究・修復実験所、そして、美術館の学芸員を養成するエコール・デュ・ルーヴルの六つである。p.208

 川沿いの建物で地下収蔵庫なんか作るなよ… つーか予算が凄いな。

”マレビト”サービス:図書館と観光:その融合がもたらすもの

yashimaru.hatenadiary.jp
 メモ。確かに、知らない町を探索するときには、地元の歴史と地図と観光ガイド類が一カ所で見られる施設があれば便利だなと思う。愛媛県八幡浜を自転車で動いたときにそう思った。あの時は図書館にも行ったんだけど、あんまり情報がなかったな。

空から撮影した、世界20の主要都市の写真を見比べる

http://www.hiroburo.com/archives/51212994.html 航空写真と衛星写真と高い建物から撮った写真がごっちゃなのはどうなのよ…
 しかし、バルセロナが凄すぎる。街区の真ん中に、中庭が必ずあるとは。中世・近世の町並みが残っているということだろうか。

5年連続大みそかに角が落ちた珍獣、さて今年は… 熊本

http://www.asahi.com/national/update/1227/SEB201012270006.html そう言えば、10年近く動物園に入っていないなあ。脇は年に何回か通っているのだが。春になったら行ってみるか。

「ジローは角があるときは強気でも、落ちた途端にしょぼんとするんですよ」と明かす。

wwww

「去年はいい年だったろう」

hirorin.otaden.jp
 犯罪の件数が激減しているという話。
 当直中の事件受理、10件超えたら「強制残業」 厚木署なんて話を聞くと、本当に犯罪件数が減っているのか、疑わしい感じではあるのだが。意図的に認知件数を減らしている疑いが。全体的には横ばいから減少なのは確かなのだろうけど。
 減っても「体感治安」悪化、増えたら普通に、予算増額を要求するというマッチポンプになっているのではないだろうか、警察。データとしては減りまくっているのに、「心が暗くなるような事件」とか言って、マスコミは相変わらず煽るしな。

ベトナムの世界最大の洞窟内部に巨大ジャングルがあることが判明

blog.livedoor.jp
 なんですか、その『失われた世界』は。恐竜でもいるんですか。
 しかし、何というかロマンすぎる。光が差し込んで、植物が繁茂している洞窟か。おもろい生物がいそう。

モスクワ暴動:高まる民族主義の危険 廣瀬陽子

synodos.jp
 まあ、ロシアはもともとアレだったわけだが。しかし、なんかいろいろと酷いことになっているな。下手にロシアなんかに行くと、襲撃されそうだ。

「専業主婦は病気」??? ソースがあっても発言を斜め読みしてしまう可哀想な人達

togetter.com
仙谷氏「専業主婦は病気」と問題発言か 本人は「記憶にない」と釈明
 まさに産経と八木秀次の病理が、ここで指摘されていることなのではなかろうか。ここまでねじくれたことを平然とできる産経には、脱帽だわ。捏造新聞は早く潰れんかな。
 当否はともかくとして、産経よかよっぽどまともなことを言っている。

、「専業主婦は戦後50年ほどに現れた特異な現象」と分析。「(戦後は女性が)働きながら子育てする環境が充実されないままになった。もうそんな時代は終わったのに気付かず、専業主婦に家庭の運営を任せておけばいいという構図を変えなかったことが、日本の病気として残っている」などと発言した。

 仙谷氏は27日の記者会見では「工業化社会に入る前は女性は家事労働もし、(男女で)共同作業をしていたが、戦後の一時期、分業体制が固定化されすぎていた」と持論を展開。「志ある優秀な女性にとっては日本の社会構造は生きにくい」との認識を示した。

 近世の武家の奥方も「専業主婦」と言っていいかもしれないがな。まあ、足軽身分あたりだと内職とか、畑仕事なんかで女性の労働力は重要だったのかもしれないが。


仙谷由人官房長官は、「専業主婦は病気」と言ったのか?