宮台真司・香山リカ『少年たちはなぜ人を殺すのか』読了。



対談集だけに読みやすい。また、先日の『若者の犯罪凶悪化は幻想か』と比べて、実感として受け入れやすい。
ただ、著者2人の議論の元になる「サンプル」に偏りがあるのではないかと気になる。宮台が接触する「若者」も、香山が診察する患者も、どちらも極端な(「底が抜けた」と表現される)部分が中心で、一番多いサイレント・マジョリティは捉えきれていない可能性があるのではないかと疑う。
資格取りに走るような実利的な人間がどういう感覚を持っているか。そこが分かりにくい。
また、その観察も、せいぜい30年程度しか遡り得ないのではないか。

共同体の記憶がないから全域的なファシズムの危険もないが、しかしどこにも確かなものがなくて、…
p.89

最近の情勢を見ているとそうでもない様な状況になっているな。

そう考えると、オタク化は病理を促進するように考えられがちですが、逆により深刻な病理に陥ることを防衛している可能性もあるわけです。
p.171

宮崎勤のビデオコレクションから、ビデオの収集が分裂症の発症を防いだらしい症例の話に続いて。
まあ、メディア規制の議論が非科学的なのは今に始まったことではないが…

犯罪は少ないけれども、警察や司法の動きがフェアでなく、人によって紛争解決手段へのアクセシビリティが違うような、どろどろとした擬似共同体的なものが支配する社会が、今日果たして健全だと言えるでしょうか。犯罪件数が多くても、万人に開かれた公正な司法警察権力の呼び出し線が存在するフェアな社会のほうが、成熟した社会では健全じゃありませんか。犯罪の少なさだけを誇るような民度の低さは、この国の土建屋政治や腐りきった教育を支えています。犯罪が増えたから、どうだって言うんだよ(笑)。
p.212-3

半分は頷ける。日本のその部分が腐っているのは確か。
しかし、アメリカにしてもヨーロッパにしても、擬似共同体的な部分は厳然として存在し、紛争解決手段へのアクセシビリティにも差があると思う。
日本ほどこんがらがっている国はないと思うが。
「伝統社会」に「近代」を無理矢理接ぎ木した以上、ある程度は仕方がない部分がある。
近代法システムは社会の深い部分まで届かないし、共同体的解決はもうとっくに機能不全に陥っている。
「近代化」が終了した現在は、これらの遺産から、何を残しどうやって折り合いをつけるか、整理しなおす時期が来ているのだろう。裁判所も、警察も、弁護士も、そして、それを利用する他の人間も。
その意味では、裁判員制度の導入は、厳しい義務と私自身も思うけれども、必要な試練なのだと思う。
その厳しさを引き受けないと、専門家はどっかへ遊離して行き、勝手に制度を壟断する輩が出てくる。
私自身は、日本史、特に法制史の知識に欠けているのだが、前近代の紛争解決に裁判は限定的な機能しか果たしていなかったこと、かなりの部分が他の経路を使って処理されていたことは確かであろうと思う。
その伝統的な裁判の無力さを補う手段の一つとして、裁判員は有望なのではないかと思う。