杉山正明『逆説のユーラシア史:モンゴルからのまなざし』

あちらこちらに発表した短文をまとめた本。アフガニスタンマルコ・ポーロ、工芸品など、扱う範囲は広い。
本書は2002年出版だが、ちょうどその時期の国際情勢をまともに反映していて面白い。
アフガンへの攻撃、中央アジアアメリカの拠点が出現し、大陸を舞台に新しいグレート・ゲームが起こるかもしれないなどというくだりは特に。4年経ってみると、アメリカはイラクの泥沼にはまり込んで、新グレート・ゲームどころではなくなってしまっているわけだが。
ブッシュ政権の政策にこうも早く揺り戻しがくるとは思わなかった。
前半は世界史像の見直しについての話が多い。遊牧民というキーワードから見た歴史像、歴史学のあり方・伝統などの問題が語られる。「最後の遊牧王国」がアフガニスタンであるという指摘は非常に興味深い。この部分は、いつもの杉山節という感じでもある。
また、後半では、足利学校での講演である「大陸文化と足利学校の源流:足利学校講演録より」と史料を捜し求めて中国国内とヨーロッパを旅行した経験を語った「東西の文献と風光をたずねて」が味わい深い。


ここしばらく『東方見聞録』を読んでいたこともあって、マルコ・ポーロを扱った第一章の5節が印象に残っている。

たしかに、ヴェネツィア公文書館には、1324年に他界したマルコ・ポーロという名の人の遺産目録が残されている。しかし、だからといって、この人物が東方旅行をしたというマルコ・ポーロと同一人物である保証は、まったくない。それどころか、ペルシア語・漢語文献を二大史料群とする二十数か国語にわたるモンゴル時代の根本原典には、マルコ・ポーロとその父・叔父の姿は、まるで見えない。マルコ・ポーロが、モンゴル皇帝クビライのもとで就任したという地方長官の職は、漢文史料により歴代の名が全てわかる。だが、それらしき人はいない。(後略)
(p.114)

 つまるとこと、マルコ・ポーロ問題の根幹にあるのは、あまりにも多種多様な写本群である。合計143種(数え方によって多少の増減がある)にのぼるそれらは、しるされた言語も中世フランス語、トスカナ方言やヴェネツィア方言のイタリア語、ラテン語などの違いがあるのをはじめ、内容・分量・成立時期もさまざまで、じつはどうしようもなく、まとまりがない。しかも、後世のものになればなるほど、短くダイジェスティブになる傾向がある。中世・近世のヨーロッパにおける王侯・貴族たちに「読んでいただく」ために作成されたそれらの写本は、簡単に内容はわかるほうが歓迎されたからである。これまでは、前述の中世フランス語でしるされたフランス国立図書館所蔵本を基準に、そこから遡ったかたちで祖本ないしは原本が想定され、写本群全体の系統図が仮想されてきた。だが、その系統図は、いまは伝存しないX写本を幾つも設定しないと成立しない。ありていにいえば、無理と空白がやたらと目につく「作りもの」なのである。
 現実のありようを素直に眺めれば、マルコ・ポーロ旅行記と称する雑駁な写本群が、ヨーロッパ各地に散在しているというよりほかにない。
(p.115)

 結論めいたことをいってしまうと、マルコ・ポーロという時空を超えた超有名人の“旅人”が実在したかどうかとは別に、いくつかの古い写本が伝える内容には、実際にモンゴル時代の東方におり、なかんずく皇帝クビライの周辺にいたものでなければ知りえない情報が、かなり盛り込まれている。しかも、それらは特定の誰かひとりの体験・知見にもとづくというよりも、やはり複数の微妙に立場やポジションの異なる人間たち(それも多分は西洋からの異邦人)の情報が組み合わされ、集成されているといったほうがいい。
 なかでも、もっともヴィヴィッドで精彩にとみ、細部にわたるまで際立って正確さをともなっているのは、クビライの宮廷とその周辺についての記述である。考えてみれば、マルコ・ポーロ旅行記という一群の写本からなる情報のかたまりのなかで、世界の帝王クビライ自身とそのまわりの話題こそ、他のどの部分よりも重要で興味ぶかく、おそらくは全篇をつうじてのハイライトであったはずである。…
 そこで以下、古い写本のなかでも、もっとも分量も多く、この写本を除外してしまうと、かずかずの「マルコ・ポーロ見聞譚」の大半が成立しなくなってしまう先述のパリのフランス国立図書館所蔵の有名な古写本(架蔵番号Fr.1116)を…
(p.122-3)

『東方見聞録』についていくつか引用したが、なんとも使いにくい史料であることがわかる。嘘八百の方がよっぽど質が良いというべきか。半端に重要情報が含まれている以上、無視してしまうわけにもいかないし。
私の関心対象である、中世ヨーロッパ人の地理情報とインド洋貿易の状況についても、他の情報源と突き合せる必要があるだろう。

 もともとモンゴルは、チンギス・カンの高原統一事業のころからすでに、どちらかといえば戦わない軍隊であった。軍隊をひきつれて対陣したからといって、戦闘があったとするのは早計である。指揮官同士の論戦で、一方が他方に雪崩をうって合流するのが、どうやら遊牧民の社会では常態だったらしい。逆に言えば、それだけ人命をそこなうのは回避された。
 モンゴルが外征に打って出てからも、戦わない軍隊の原則はつらぬかれた。どの地域についても、モンゴルは情報戦・組織戦を重視して、できれば戦う前に敵方が自壊するか投降するように誘導した。そして、おおむねはそうなった。
 実際に戦闘をまじえた例をみると、手違いか準備不足・情報不足などで、やむなく実戦に踏み切った場合が多い。しかも、本当に戦ってしまうと、モンゴル軍が敗れていることのほうが目につく。もしくは、敗戦にいたらなくても、ひとあたり先乗り部隊か前衛隊で軽く戦って様子を眺め、敵方が手強いとみると、すみやかに撤退した。
(p.183)

この、モンゴルの戦争の記述は、なんというか感心した。
モンゴルだけでなく基本的には前近代の戦争全体につうじるものだろうが、この「戦わない軍隊」というのは興味深い。前近代においては、戦争で人命を損失する、すなわち生産人口・権力・富といったものに直結するし、それは集団の存続に影響するかもしれない。専業の戦士を抱えられるような人物にしても、下手に子飼いの戦士に損害が出ると、他の有力者との力関係で不利な状況に陥りかねない。政治的な流れを見極め、自分の損害が出ないように、勝ち馬に乗る。それが前近代の戦争だったのだろう。
むしろ傭兵の方が、損耗をあまり気にしないで済むだけ、使いやすかったかもしれない。