坂井隆『「伊万里」からアジアが見える』

 科野孝蔵の『栄光から崩壊へ』より前に読み終わっていたが、メモがめんどくさかったのでこの順番。
 バンテンやベトナムの考古学調査による出土磁器とオランダ東インド会社が遺した磁器取引関係の記述から、17世紀後半の東シナ海周辺、東南アジアの磁器貿易の流れとそれから分かる貿易ネットワークを復元している。
 第一章は17世紀の長崎について。過去帳、唐人墓、唐船貿易の史料などから、長崎には中国などからの移住者が多数混在する都市であり、華人・華僑の貿易ネットワークの一端であることが指摘される。第二章は東南アジア・インド洋地域の磁器貿易について。フォルカーのオランダ東インド会社史料の調査やバンテンの出土磁器から、インドや中東への磁器の活発な流通、その中心の一つがバンテンであることが指摘される。また、この時代の伊万里磁器が明末の中国磁器に酷似していること、生産技術を伝え販売を行なったのが唐人であったこと、染料を供給した唐船の出帆地の変化などから、初期の伊万里磁器生産が鄭成功一族によってアレンジされたことを指摘する。これについて、先にメモを書いた三杉隆敏氏はオランダの関与を想定しているが、この時代のオランダのアジアでの実力を考えると、こちらの方が説得力があるのは確か。本書での論証は、少々隙間が多くて、その実態については分かりかねるところがあるが。
 第三章はジャワを舞台としたバンテン王国オランダ東インド会社の闘争、第四章は東南アジア多島海の港市国家とそのネットワークについて。第五章はベトナムホイアンなどから出土した陶磁器の概観とチャンパ王国ベトナム人王朝の拡大という変動と、東シナ海のネットワークを支配し磁器の流通を担った鄭氏の興亡を描く。第六章ではこれらの海を通じてつながり、17世紀後半に消滅していった諸勢力について、なんらかの相互関連があるのではないかと結んでいる。
 実はそのあたりの話の流れについては、ちょっと流れがつかみにくかったが…


以下、メモ:
p.72-75にフォルカーの『磁器と東インド会社』にまとめられた、オランダ東インド会社が記録したアジア人による磁器流通の情報がまとめられている。

 トプカプ・サライへのイマリは、十七世紀後半の磁器供給源であったモカなど紅海の港から運ばれていた。オランダによるイマリの大量輸出の嚆矢として、1659年のモカからの注文はたしかにめだったことではある。しかし、実際にモカへイマリを含む磁器を運んだのは、オランダだけではない。むしろ、イスラム教徒を中心に形成されていたインド・インドネシアを結ぶ環インド洋貿易圏の一部に、短時間オランダが参入したということにすぎない。p.75

この部分に異論はないが、74ページの磁器流通ルートの地図で、トルコ内部の磁器輸送ルートがジッダから陸路で表現されているのはちょっと疑問。スエズあたりからナイル川に出て、アレクサンドリアから海路で運ばれた可能性が高いのではないかと思うのだが。何らかの根拠があるのだろうか。また、モカはコーヒーの積み出しで有名だが、この時代オランダ東インド会社はどの程度コーヒーの輸送・取引に関与していたのか。茶やコーヒーが目立ち始めるのは、科野孝蔵氏の書物では、17世紀の末あたりからであるが。本書とは直接関係内が、少々気になる。

 輸出イマリ誕生とオランダの関わりについて、かれらが見本を提示して作らせたことがよくあげられる。たしかに前述のモカからの大量発注に際しては八個の見本が伴われている。しかし、かれらは出島のなかで見本を見せたにすぎないのであって、直接イマリの生産者と接する機会はなかった。
 おそらく中国陶磁である見本をあたえるだけでは、同質のものの生産にたいし何ら積極的な技術保証とはいえない。オランダ人が提供したもの、顔料の一部であった西アジア産の赤土だけである。
 そのような条件を見るなら、オランダ人が輸出イマリの発展に決定的な影響があったとはいいがたい。かれらだけでは、ペルシャ染付しかできなかったのである。p.103

オランダ人の磁器技術導入の可能性に関して