広岩邦彦『近世のシマ格子:着るものと社会』

近世のシマ格子 着るものと社会

近世のシマ格子 着るものと社会

 うーむ、読むのに時間がかかった。7日あたりから並行で読んでいたはずだから、10日ほどか。縞柄・格子柄の変遷から、近世の衣文化の姿を描いている本。400ページ、さらに絹織物、木綿織物、麻織物と、さまざまな織物に関連するだけに、なかなかてこずった。和装とか、織物についての基本的知識が欠けているのを痛感する。西洋中近世の織物産業でも、そうなんだけど。図版が豊富に収録されているので、知識がなくてもある程度理解できるのが幸い。
 絵画、随筆類、犯罪の手配書など、広い範囲の史料を利用して、近世の服飾文化、モードと身分制秩序の相克、モードが駆動するプロト工業化の様相などが明らかにされる。単純な織物の話ではなく、経済史や文化史など、広い範囲で興味深い書物ではないだろうか。この内容で、3000円は意外とリーズナブルだなと感じる。
 とりあえず、返却期限までに読み通すのが目的で、細かい参考文献は読み飛ばしたが、注などで一ヶ所にまとめていないので、特定分野を自分で勉強する場合は、もう一度読み直す必要がありそう。


 室町から戦国時代にかけて、紋織物で、かつ格子型の色違いの織物を「かうし」と称して、将軍の専用の織物とした。一方で、通常の格子模様の織物は、「嶋」として、故実家から蔑視されたこと。しかし、格子柄の織物は、戦国武将以下、一般人まで広く普及し着られていたという。戦国期の「嶋」がなんだったのかを追求する謎解きがおもしろい。他にも、何ヶ所か、今ではよく分からなくなった織物を追求する場面があるが、絵画や随筆から、固めていく手法は手堅い印象。
 徳川将軍は、前代豊臣秀吉の派手好み、奢侈を拒絶し、質素な装束を要求した。また、武家政権の武威を表す色としても黒は適していて、武家階層の公的な衣服の基本は黒が基調になった。近世の日本では、衣装では身分が分かりにくく、供の者の数で、権力を表したという、ヨーロッパ人の観察が興味深い。家光の派手好みから倹約への転換。熨斗目が広がった経緯やや八丈紬が将軍の織物となった経緯も興味深い。
 元禄時代の大柄な格子嶋、享保の改革による地絹や木綿への転換。田沼時代、嶋柄の大発展とモードの発展による消費社会の展開。この中で、農村も商品生産を前提とした市場経済に巻き込まれていく。この時代になると、嶋柄は細かいものが中心になっていく。しかし、この繁栄は、松平定信寛政の改革によって、一気に変化を余儀なくされる。絹織物の着用を制限した結果、木綿に需要が集中することになる。しかし、モードによって駆動していた商品経済が破壊され、農村は不況に陥る。奢侈を禁じる改革政権は、次の天保の改革も含めて、短時間しか持続し得ない。また、絹や木綿の生産量の増加は、布を安くして、地方も含めた衣生活を変化させていくことになる。このような江戸のモードは、明治を通じて生き残るが、大正になると、微細な嶋柄で微妙な差異を競うモードは姿を変える。三越デパートの江戸趣味の宣伝と、派手な大きなストライプの時代になる。九鬼周造の「いき」が、大正時代の粋を、過去に無理やり遡らせたものであるという指摘が興味深い。


 絹織物にしろ、綿織物にしろ、織物本体はるいは生糸などの素材を輸入に頼っていた近世初頭から、18世紀半ばあたりまでに国産代替の進展。田沼時代に、モードに駆動されて、広範な地域に織物生産が拡散。プロト工業的な、あるいはコテージエコノミー的な、農村社会の商品経済化が進展する。しかし、この流れは寛政の改革でせき止められることになる。天明の飢饉で傾いた体制を立て直すためとはいえ、松平定信のやったことは反動的すぎたと。というか、天明の大飢饉そのものが、社会の貨幣経済化の影響を受けているのではなかろうか。松平定信のついては、経済政策なんかでも評価されることがあるけど、織物生産で生計を立てていた多くの人々を苦しめたことは、疑いの無い事実だよな。「農間」稼ぎはもってのほかって考え方自体が、近代から見れば社会の達成の否定だよな。このあと、19世紀にかけて、プロト工業化は一層進展し、近代に入り、開国したあと、近代化のための外貨を稼ぎ出すことになる。本書では、プロト工業化といった用語は出てこないが、雄弁にその経済的達成を明らかにしているように思う。そこで蓄積された資本と技術が、今度は下からの機械化をしていく。
 あと、本書では、町方のお触書史料を、一般の人々の衣生活の変遷を知る史料として、さかんに使用している。内容は、家出人・失踪者や盗難の手配書など。町方史料を利用した、地域の衣生活の復元というのは、熊本を素材にしても可能かも。確か、熊本城下町の町方文書も、活字化されていたはず。機会があったら、調べてみようかな。


 以下、メモ:

 一言も発しない儀式の主、姿を見せないまま威圧する権力、外国人を見世物にして拝礼だけを求める王権をケンペルは見ていた。家康は外国人に世界情勢を率直にたずね即答もしたが、百年近く後になると異なる支配者がそこにいた。p.63

 綱吉の時代の話。日本の王権は、むしろ隠れて出てこない。空白性が、基本的なあり方なのかも。

 上方では「紬嶋、飛騨のものを上とする」(『和漢三才図会』)と折り紙つきであった。その嶋に二種類がある、と後の飛騨代官が書く。p.115

 こういう絹糸・絹織物生産の伝統が、合掌造りへとつながるのかね。

 格子柄は昔からありタテ・ストライプを織りうる技術はあった。しかし、日本史ではタテ嶋の衣類がほとんど知られていない。例外は室町時代の将軍夫人クラスの女の紋織物「織物小袖」くらいである。だからタテ嶋の定着は近世の出来事となる。近世とそれ以前はそれで画然と分かれる。
 山崎闇斎は絵で母のタテ嶋を是認し、それを老女にふさわしい趣味と見ている。闇斎は絵で近世の柄の見方や思考・感じ方を提示している。それは徳川の世が従来と違う社会に移ることの証左ともなる。p.130

 へえ。近世まで、縦縞の衣類って、ほとんどなかったんだ。

 渡来品の精細さは和製を圧倒していた。インド製品には幅1センチに三十二組のタテ糸を配するものがあり、糸数は六十四本となる。並品でも二十八組ほどあり、薄く平滑で軽い。和製の綿花ではどうしても糸が太くなり、1センチ二十三〜四本の織密度が限度となる。インド木綿の精密さは、機械紡績糸ができるまで世界の脅威であった。京都製の奥嶋が一目で「真物と似ていない」(前掲書)とわかるのも、糸の彼我の差からして当然であった。p.168

 近代に入ると、インド綿を輸入するようになるが、やはりそっちの方が機械製糸に向いていたのかね。

 古渡り好みは骨董趣味のせいではない。どこまでも品質を追求する客と商人の鋭い眼力がそうさせた。衣類には新品の生地がよいけれども、質の良い唐桟の輸入が難しくなっていた。衰退するオランダ東インド会社はそのころインドの優等品を調達できず、唐桟も更紗も長崎に来るのものの品質が落ちた。質の高いものは古着で探す方が早かった。古渡りブームは唐桟の質を見抜いて大事にする文化と、貿易情勢のせいである。
 古渡り唐桟は西洋人に目撃された。1820年代に江戸にも来たオランダ人は「私は五十年も前の着物を着る人を見た」と証言する。それは「奥嶋という綿織物すなわちギンガムの着物で、今よりもはるかに質の高いものであった」。「古い物が注意深く保存されている」のは、職人の働きぶりや手技とともに、ヨーロッパに勝る日本の文化だ、と書いている(フィッセル『日本風俗備考』)。
 世界史の教えるところでは、オランダ本国は1795年、フランス革命軍に占領され一時併合される。オランダ東インド会社は経営が行き詰って1799年に解散し、ジャワ植民地は政府直営となる。インド・コロマンデル海岸の覇権はイギリスに移って、オランダは唐桟など上質木綿を確保できなくなる。1810年代にはジャワ島自体がイギリス支配に変わる。長崎の新渡の唐桟・更紗の質は昔日の面影を失った。
 その変化を三都の商人と洒落者は18世紀末から見抜いていた。彼らは最高品質の木綿がいかなるものかを熟知し、愛着を捨てなかった。今渡りは使い物にならない、だから高品質の古渡りを必要とする。遊里本の記事はこうして国際情勢とつながる。年代物の尊重は優れた感受性と趣味と、識別の力量によるものであった。
 インド綿業の衰退がすぐ始まった。イギリス産業革命により機械紡績の安い綿製品がインドへ逆流し、質量とも世界一だったインドの木綿産業に襲いかかる。イギリスはインドを原料綿花の供給国へと転じさせ、インドの得意先に機械製品を売り込む。イギリス製更紗は1813年、イギリス唐桟は1821年から現に長崎に来ている(石田千尋『日蘭貿易の史的研究』)。それはインド製に化けた模造品の対日輸出であった。
 イギリス製唐桟にはタテは双糸でヨコは一本だけのものがあり、江戸人はそれを「新渡横一」と軽んじた(『近世風俗志』)。その言い方に眼力がうかがえる。p.332-3

 おもしろいな。国際情勢によって長崎に品質の良い木綿製品が供給されなくなる。それを見抜いて、最高品質のものを探し回ると、過去に輸入された物を使うことになる。近世の衣文化の成熟が分かる。

 ずっと後になるが、紀伊藩家老の侍医が、江戸で見た奥女中について書く。武家屋敷の女中らはまん丸に肥え太って、尻はいかえしく、ドタドタと地響きを立てて歩く集団であった。彼女らは無遠慮ではた目を気にせず、「ひときわ目立ってふつつかなり」である。着物は布団のような大柄の嶋縮緬から総模様であった(『江戸自慢』「未刊随筆百種」第8巻)。
 うーん、上層の武家の女性は、運動不足で太りやすそうではある。しかし、ドタドタ地響きを立てて歩くって、どんな歩き方をしていたんだか…