中岡哲郎『日本近代技術の形成』

 読むのに時間をかけすぎたので、どうも内容が頭に入っていない。
 分析の概念が古すぎてどうにもついていけない部分とどうも手持ちの知識と齟齬があって頭をひねるところ、ついでに具体的な生産の場の技術が理解できない場所があって、なかなか読み進めなかった。特に繊維業関連の部分は、織物の実際についての知識に欠けるところもありきつかった。そもそも江戸時代にすでに問屋制家内工業が標準になっているのではなかったっけ?
 あと、江戸時代=封建制のイメージも受け入れがたい部分。確かに幕藩体制は「身分制社会」ではあったと思うが… 
 後半、特に造船の部分は歯切れが良くて読みやすかったように思う。
 しかし、結局19世紀後半の生産システムはキャッチアップできたものの、機械・大量生産システムは取り入れることができなかったのだな。それにもかかわらず、総力戦なんて無茶をやらかした。あと、「鎖国」による国際市場からの隔離の重要性を感じる。分厚い内需向けの手工業生産の層が開国の衝撃をうまく吸収した。その意味で現在の日本の経済はものすごく脆弱でないか。など、とりとめないことは色々考えたが…
 もう一度読み直しの要あり。あと、岡崎哲二『江戸の市場経済:歴史制度分析からみた株仲間』(ISBN:4062581558)を探さないと。

在来産業が壊滅的打撃を受けたとする全体像については異論があります。そのような見方は、在来産業がそれら一つ一つの打撃に、反応し、対応し、生き延びる努力をとおして発展したダイナミックな過程をみおとすことに通じます。
 そうした意見の底に、非常に単純な技術史観があることを指摘しておきます。すなわち、流入してきた西欧製品は、近代技術を駆使した近代生産力の産物であって、安価で均質で高品質であった。その前に前近代的手工業技術の製品はひとたまりもなかったという考えかたです。この考えに立てば表四-1の輸出入の数値は、優秀な輸入品が、劣等な国産品を圧倒しながら国内市場を制圧していく過程として、簡単に説明できます。前章で紹介したトマス・スミスの本も、ほぼこの説に立ち、富山県の綿業、讃岐の砂糖業、島根の製鉄業などの衰退を例に、いかに広範な地域で在来手工業が輸入品に圧倒され衰退していったかを強調しています。p79-80

 中国種である日本綿は短繊維で、強剛で、前項でも見たとおり細糸が紡げない性質がありました。最高級の綿を用いても十六番手くらいが紡げる限度で、二十〜二十五番手を得るにはなんらかの特殊な技巧が必要だったと思われます。庶民の日常着・野良着は五〜七番手あるいは十番手くらいまでの太糸で織られており、川勝の言うとおり厚地で耐久性があることが特色でした。これに対して、十七世紀ごろから東インド会社によってもちこまれた薄地のインド木綿布との、直接的競争のなかで育ったイギリス綿業は、本質的に細糸?薄地布志向であり、長繊維のエジプト綿、海島綿、中繊維のアメリカ綿を原料として用い、一〇〇番手を超える極細糸から、二〇、十六番手の太糸まで幅広い糸が紡げますが、それ以下の番手は紡ぎにくい性質がありました。
 つまり、
 日本綿業………短繊維綿→太糸→厚地布
 イギリス綿業…長繊維綿→細糸→薄地布
という品質連関が二つの綿業を異質のものとしており、第二期の日本綿業は、そのころから大量に日本にもちこまれるようになった十六番手以下のインド紡績糸を用いて厚地布を織ることにより、厚地布が得意でないイギリス製綿織物との競争に勝ったのであると、と彼は主張したのです(川勝平太、一九九七)。p.134-145

奢侈品・貿易品としての綿織物をキャッチアップしたイギリス綿業と日用品としての織物を自国内向けに作っていた日本綿業との性質の違いと考えることもできる。